高野山奥之院の五輪塔7 佐竹義宣の墓(供養塔)

●高野山奥之院の五輪塔7 佐竹義宣の墓(供養塔)
住所:和歌山県伊都郡高野町高野山(字 奥ノ院(原文ママ))
駐車場:入口にあり

 高野山での菩提寺は清浄心院。佐竹義宣(元亀元(1570)年~寛永10(1633)年)は名門・佐竹氏の十九代目当主で義重の子。豊臣政権下、常陸・下野等で五十四万石を与えられる。関ヶ原の戦いで西軍と通じ出羽秋田二十万石に減封となった。大坂冬の陣で奮戦する。

五輪塔の正面には下記の通り刻まれている。
出羽国秋田前城主佐竹右京太夫
源朝臣義宣追善也
     為傑堂天英大禅定門
(梵字ア)
     出離生死頓證菩提
施主孝子佐竹修理太夫源朝臣
義隆造立之

佐竹義宣の墓

佐竹義宣の墓

参考文献:戦国武将と高野山奥之院: 石塔の銘文を読む

感想:建立したの義隆は義宣の甥で二十代目当主です。



高野山奥之院の霊廟1 佐竹義重の霊屋(逆修)

●高野山奥之院の霊廟1 佐竹義重の霊屋(逆修)
住所:和歌山県伊都郡高野町高野山(字 奥ノ院(原文ママ))
駐車場:入口にあり

 高野山での菩提寺は清浄心院。佐竹義重(天文16(1547)年~慶長17(1612))は名門・佐竹氏の十八代目当主で常陸の戦国大名だった。南の北条氏、北の伊達政宗などと戦う。関ヶ原の戦いで息子の義宣が西軍に通じたため改易されそうになったが、義重の工作で佐竹氏は出羽秋田の減封という処分になっている。
 霊屋は逆修(生きているうちに、あらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行なうこと)で仏事の後に建てた。屋根は切妻造、檜皮葺で、向かって右の柱には『常陸国佐竹為義重逆修造立之』、向かって左の柱には『(時に)慶長四己亥十月十五日』と刻んである。

佐竹義重の霊屋

佐竹義重の霊屋

参考文献:戦国武将と高野山奥之院: 石塔の銘文を読む、現地の案内板、高野山霊宝館

感想:後ろが狭いため正面からの写真ばかりに拘りましたが、横からや刻銘の撮影もしておいた方が良かったと今頃後悔しています。ちなみに国指定重要文化財です。



高野山奥之院の五輪塔6 森忠広の墓(供養塔)

●高野山奥之院の五輪塔6 森忠広の墓(供養塔)
住所:和歌山県伊都郡高野町高野山(字 奥ノ院(原文ママ))
駐車場:入口にあり

 高野山での菩提寺は釈迦文院。森忠広(慶長9(1604)年~寛永10(1633)年)は森忠政の嫡子だったが心労のため乱れた生活を送るようになり、忠政の命で江戸に軟禁された。そこで病に罹り父の忠政より早く亡くなる。五輪塔は忠政が建立したもの。

五輪塔の正面には下記の通り刻まれている。
施主美作国守藤原
朝臣森中将忠政
矣為先森左近太夫
    顕徳院殿
(梵字ア) 大禅定門
    光甫宗本
藤原朝臣忠魔建
立焉
寛永十一年二月二十二日

森忠広の墓

参考文献:戦国武将と高野山奥之院: 石塔の銘文を読む

感想:徳川秀忠の養女と結婚しましたが二人の間に子が生まれる前に養女が死去したため、将軍家との繋がりが断たれる心労から酒と女に走ったそうです。