●備後三原城
住所:広島県三原市館町
駐車場:三原駅周辺に有料駐車場あり
遺構:曲輪、石垣など
標高:15メートル/比高:12メートル
小早川家系図によると永禄10(1567)年2月に毛利元就の三男・小早川隆景が築城したという。天正5(1577)年の石山合戦の最中には毛利輝元の本陣になり、天正8(1580)年には毛利家の家臣・粟屋元通が修築を行った。天正10(1582)年、備中高松城が豊臣秀吉の手に渡り備後が最前線になる可能性が出てくると濠の普請を行い、翌年には城下町を整備する。この頃、隆景は新高山城から当城に居城を移したようだ。その後も何度も修築を行っている。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦い後、芸備に入った福島正則は支城とし、福島家改易後に領主となった浅野家も支城として利用した。城主は三原浅野家だったが、当主は広島に常駐し家臣の戸田氏を在住させ、近世には三原の城下町を拡大させている。明治維新後、城の建物の大半が撤去され明治27(1894)年の山陽鉄道開通で城址に三原駅が建設された。その後も埋め立てなどが進み現在は天主台跡・舟入櫓跡など一部が残るのみである。
(三原駅北口に出来た休憩所? 三原城についての紹介があった)
(三原駅構内から天守台跡に登る。写真はその途中にあったらっきー神社。賽銭を入れなくても御利益があるようだ。何の御利益があるか知らんけど)
(やっさ踊りの像。隆景が三原築城した際、住民がこれを祝い三味線、太鼓、笛などを打ちならし酒を飲んで「やっさ、やっさ」と言いながら踊ったのが始まりらしい)
感想:天守台跡、船入櫓跡、本丸中門跡を歩いただけでも結構な距離がありました。現存していれば、かなりの規模の城だったのでしょう。市内の寺に移築門もあるらしいのですが、そちらは行っていません。