尼子義勝(久幸)の墓(安芸高田市)

●尼子義勝(久幸)の墓
住所:広島県安芸高田市吉田町西浦
駐車場:なし

 尼子経久の弟・義勝は天文9(1540)年の吉田郡山城の戦いに大将で甥の尼子詮久(晴久)に従軍した。しかし城を落とすことができず、翌年に大内軍の陶隆房(晴賢)が援軍に来ると義勝は大内軍と戦って戦死している。その後、中山の山頂である当地に葬られた。

(入口)
入口

(墓所)
墓所

感想:民家を抜けるような感じになっているので(気持ちとして)微妙に通りづらいです。
 義勝が安芸遠征に反対したため、詮久が下野守を名乗っていた義勝に対して「臆病野州」と罵ったことから、援軍の大内軍との戦いで「臆病野州の最期を見よ」といい勇敢な戦死をしたという話が有名ですが、軍記物などにしか記載がなく信憑性は低いです。





安芸日山城(安芸吉川氏の居城)

●安芸日山城
住所:広島県山県郡北広島町新庄・中山・舞綱・志路原
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、石垣
標高:704メートル/比高:265メートル

 国指定史跡。日山は「ひのやま」と読む。そのため日野山城、火野山城とも表記される。天文14(1545)年頃、吉川興経が火野山の山頂に本拠地として築いた。天文19(1550)年、毛利元就の次男・元春が吉川氏に養子に入ると次第に拡張・改修されて行くが、天正19(1591)年に元春から家督を継いだ吉川広家が豊臣秀吉の命で出雲の月山富田城に本拠地を移している。

(入口)
入口

(登山道の結構な場所が川になっており長靴でないと厳しい)
登山道

(やがて東西に広がる城域の東側に出る。最初に行くのは4の郭の米蔵段。この城は「○の郭」と曲輪の名前の案内があり非常に分かりやすい。ちなみに東側の3~7の郭は中城地区と呼ばれる)
米蔵段

米蔵段

(米蔵段の土塁)
米蔵段の土塁

米蔵段の土塁

(5の郭の中城口。ここにも土塁があった)
中城口

中城口

中城口

中城口

中城口

中城口

中城口

中城口

(3の郭の中城・築山。ここには巨石があった)
築山

築山

築山

築山

築山

(6の郭。名前はないらしい)
6の郭

6の郭

(7の郭)
7の郭

7の郭

(10の郭の大門の原。ここから北地区と呼ばれる城域の中央。そして笹藪になる)
大門の原

大門の原

(上記の北にある姫路丸。縄張図にはその先にも曲輪が載っていたが笹藪で遺構が分からないので引き返した)
姫路丸

姫路丸

(13の郭)
13の郭

(14の郭の大広間の段・池の段・中門。三方が曲輪などの高台に囲まれており周りから一斉射撃されそうだ)
14の郭

14の郭

(12の郭の二の丸・馬場。14の郭の南に位置する)
二の丸

二の丸

二の丸

(16の郭)
16の郭

16の郭

(17の郭)
17の郭

17の郭

(18の郭。ここら辺からどこを撮っても笹藪しか写らないので飽きてきた)
18の郭

(19の郭の下り丸・中の丸・二の丸)
19の郭

19の郭

19の郭

19の郭

(22の郭。中央の北地区と本丸周辺の山頂地区を結ぶ曲輪)
22の郭

22の郭

(本丸の北にある23~25の郭。本丸の手前で下るのだが笹藪で正確な道が分からなくなって本丸に直登した。GPSで大体の道は分かったけど足を踏み外して滑落するのが怖かった)
23~25の郭

23~25の郭

23~25の郭

23~25の郭

23~25の郭

23~25の郭

23~25の郭

(本丸。登山道を登るより城域に着いてからここまで来る方が疲れた)
本丸

本丸

本丸

本丸

(28の郭の出丸・南櫓。本丸の南に位置する)
出丸

出丸

出丸

出丸

感想:豪雪地帯の北広島町のこんな標高の高い山の上に吉川一族や家臣が居住していたという史料が残っているそうですが、それがこの城の一番の驚きです。流石に冬は麓で暮らしていたのではないかと思うのですが。
 途中、「チッチッチ」と舌を鳴らす音が聞こえたのでそちらを見てみたらマムシがいました。





渡辺七人塚(渡辺一族の墓)

●渡辺七人塚
住所:広島県安芸高田市甲田町下小原
駐車場:なし

 尼子氏と通じ毛利元就の代わりに弟の相合元綱を擁立しようとした渡辺勝らだったが、これを察知した元就によって元綱や勝は殺されてしまう。その後、元就は渡辺一族七人も殺害した。塚はその七人を祀ったもので石塔と桜、榎を植えて墓標としている。

渡辺七人塚

渡辺七人塚

渡辺七人塚

(目印としていた榎が枯死したが、そこから添え木(?)したけど台風で倒木した榎の根)
榎

感想:個人宅にあるため許可を取って参拝しましょう。家の方によると最近は鹿が悪さをして石塔を倒すそうで、何度直しても繰り返されることからそのままにされているそうです。