旧高烏砲台兵舎(呉市の島々や山間部に築かれた13基の砲台のうちの一つ)

●旧高烏砲台兵舎(呉市の島々や山間部に築かれた13基の砲台のうちの一つ)
住所:広島県呉市警固屋(音戸の瀬戸公園内)
駐車場:あり

 高烏(たかがらす)砲台は呉市の島々や山間部に築かれた13基の砲台のうちの一つである。高烏砲台は、日本陸軍が外国艦船の侵入を防ぐ目的で、標高218メートルの高烏台に28センチ榴弾砲6門を配備し、明治29(1896)年から建設を開始。明治34(1901)年に完成させた。この際、兵舎も併設された。大正15(1926)年、戦争の形態が進化したため砲台は放棄されたが、戦争の主役となりつつあった航空機に対抗するため本土防衛用の高射砲が設置される。
 終戦後、砲台は兵舎は放置されたが、昭和36(1961)年に音戸の瀬戸公園として整備された。

兵舎

兵舎

参考文献:現地の案内板、民俗建築 112号、呉市史 第5巻、国土交通省、呉市公式サイト

感想:この時は左足を骨折しながら回っていたので移動が大変だったのを覚えています。



音戸の瀬戸(呉市の本土と倉橋島の間の水道)

●音戸の瀬戸
住所:広島県呉市警固屋、呉市音戸町
駐車場:音戸の瀬戸公園は駐車場あり

 呉市の倉橋島と休山(やすみやま)半島との間の水道で、幅が約70~90メートルある。平清盛が日宋貿易と厳島神社の参拝のため、応保2(1162)年に切り開いたと伝わる。清盛が向かい潮で船が進まないことに怒り、海上を睨むと潮が逆流したという伝説から、「清盛のにらみの瀬戸」とも呼ばれていた。
 現在では、1日に大小約700隻の船舶が往来している。昭和36(1961)年に音戸大橋が、平成25(2013)年に国内初のの空中ジョイントを成功させた第二音戸大橋が架けられた。

(音戸の瀬戸公園から見た音戸の瀬戸。手前が第二音戸大橋、奥のループになっているが音戸大橋である。自分が呉に住んでいた頃は音戸大橋しかなかったため、そちらに思い入れがある)
音戸の瀬戸

(音戸の瀬戸公園にある平清盛日招像。工事できる期間を延ばすため、沈んでいく太陽に向かって扇を振り戻したという「日招き伝説」を元に建てられた)
平清盛日招像

(県指定史跡の伝・清盛塚。音戸の瀬戸を切り開いた清盛を讃えるため、元暦元(1184)年に建てられたと伝わるが、実際には室町時代の建立と推測されている。また、清盛による開削伝説もその頃に生まれたと考えられる。『輝元公御上洛日記』の天正16(1588)年7月9日の条には「牛ノ刻ニ瀬戸を御舟が出られ、此戸中に清盛ノ石塔これ有り」とある。なお、上の橋は音戸大橋である)
清盛塚

参考文献:広島県の地名、呉市観光情報サイト広島県公式サイト

感想:この時は左足を骨折しながら回っていたので移動が大変だったのを覚えています。健康の有り難みを感じました。



理窓院(宍戸元源夫妻と宍戸隆忠夫妻の墓)

●理窓院
住所:広島県安芸高田市甲田町下甲立1125
駐車場:あり

 真言宗御室派。本尊は大日如来。法源山薬師寺、法源山理窓院薬師寺とも称す。天平年間(729~749年)、行基が粟屋村(三次市粟屋町)に庵を建て薬師如来を安置したのが始まりと伝わる。大永2(1522)年、五龍城主・宍戸元源が当地に移転して元源の法名から一叟院と号した。寺領が100石あり、のちに毛利輝元から100石を加増されたが、福島正則が安芸の国主となると全て没収されたという。芸藩通志には永禄元(1558)年に創建とある。
 禅宗だったが寛永4(1627)年に石見の口羽村(島根県邑智郡邑南町の口羽地区)の延命寺の社音が入り真言宗に改宗し理窓院と号する。昭和初期には衰微し廃寺寸前となったが太平洋戦争後に再興され、近世に建てられて傷んでいた伽藍が修築され現在に至る。
 行基が安置した薬師如来は霊験あらたかで宍戸隆家が厚く信仰し、近世には流行り病が平癒するとのことで近隣住民からの信仰が厚かった。

(山門)
山門

金剛像

(本堂)
本堂

(六角二重大師塔)
六角二重大師塔

(不動堂?)
不動堂

不動堂

(六地蔵)
六地蔵

(宍戸元源夫妻の墓)
宍戸元源夫妻の墓

宍戸元源夫妻の墓

(元源の次男・宍戸隆忠とその妻の墓)
宍戸隆忠夫妻の墓

(寺に隣接している甲立古墳)
甲立古墳

参考文献:広島県の地名、現地の案内板、甲田町誌

感想:金剛像がお茶目な感じで印象に残っています。