浄土寺(足利尊氏の供養塔)

●浄土寺(尾道市)
住所:広島県尾道市東久保町20-28
駐車場:境内の東側に駐車許可スペースあり

 真言宗。推古天皇24(616)年、聖徳太子が創建したと伝わる。鎌倉時代には荒廃したが、永仁6(1298)に西大寺の叡尊の弟子・定証が一夜を過ごした際、住民の願いにより当寺に移って再興を発願し尾道浦の豪商・光阿の財力などを借りて実現した。正中2(1325)年に伽藍が全焼したが、尾道浦の道蓮・道性夫婦が大願主となり資材を集め、貞和元(興国66、1345)年に大半が再興している。
 南北朝時代には両勢力から対岸の因島地頭職が与えられるなど重要視されたが、室町幕府や守護の山名氏の力が衰えると在地領主の杉原氏・宮氏・山内氏・小早川氏などに寺領を荒らされ収入が減少した。毛利氏が備後を抑えると収入も安定したが、関ヶ原の戦い後に備後を支配した福島氏によって寺領を没収され、続いて浅野氏が備後を支配すると僅かながらの寺領を与えられるのみになる。そこで尾道の豪商などが檀那となって存続した。
 多くの伽藍や本尊の木造十一面観音立像などの寺宝が県や国の文化財に指定されている。

(駐車場になっている場所のそばに建つ鎮守神の丹生神社)
丹生神社

丹生神社

(子安堂)
子安堂

(向かって左が足利尊氏の供養塔で右が足利直義の供養塔。九州に落ち延びる途中の尊氏が当寺で戦勝祈願を行い九州で菊池武敏に勝利し、上洛の際にも再び戦勝祈願をして楠木正成を破っている)
供養塔

(多宝塔と阿弥陀堂)
多宝塔

多宝塔

阿弥陀堂

(本堂)
本堂

(山門と、そこから見た瀬戸内海方面。2号線との間には山陽本線が走っている)
山門

瀬戸内海方面

(痛風などに効能がある観音霊泉)
観音霊泉

感想:尾道なので幅の狭い坂を登っていかないといけないことから車で行くのに苦労しました。



宇津戸の境界石(領家と地頭の領地の境界)

●宇津戸の境界石
住所:広島県世羅郡世羅町宇津戸
駐車場:不明

 海裏荘(うつとのしょう。現在の世羅町宇津戸)を領家と地頭が争っていたが、延慶2(1309)年に中分(人々が和解するために、中間をとって妥協しあうこと。また、その方法で第三者が仲裁をすること。特に鎌倉・室町時代には、所領争いの際に係争物を二分して、当事者双方に与える方法が多くとられた。また、当事者どうしの私的な和解の方法としても用いられた)が行われた。
 これには伝説があり、争っている両者に対してより上位の権力者が「境界線が分からない場合は役を取り上げる」と脅したことから、どうしてよいか分からなくなった両者が神に祈ったところ神の使いである二頭の白鹿が走り抜け、そこが境界線になったという。
 その境界線の目印となったのが境界石で、他にもあったと思われるがここだけが現存している。

境界石

参考文献:はしだ製餡所の公式サイト、広島県の地名

感想:世羅町の企画(山城探訪)に参加して通り過ぎた際、説明を受けました。


写真の提供についてはこちらをクリック


備後山伝城(高橋式部大輔恭光の居城)

●備後 山伝城(さんでじょう)
住所:広島県世羅郡世羅町宇津戸
駐車場:不明
遺構:曲輪、竪堀
標高:341メートル/比高:38メートル

 永享年間(1429~41)、海裏荘(うつとのしょう。現在の世羅町宇津戸)の代官・高橋式部大輔恭光が居城にしたという。永正18(1521)年、今高野山城主・上原豊将(のちに毛利元就に仕え息子は元就の娘を妻としている)に攻められ落城した。

(全景)
全景

(主郭には祠が建っていた。竪堀は分からなかった)
主郭

主郭

主郭

主郭

参考文献:世羅町のイベントの資料

感想:世羅町の企画(山城探訪)に参加した際、訪れました。高橋恭光は名前からして石見高橋氏の一族のようだが・・・。出丸は場所が分からず撮影していません。

(縄張図)
縄張図


写真の提供についてはこちらをクリック