備後 一乗山城(黒木城。渡辺氏の居城)

●備後 一乗山城(黒木城)
住所:広島県福山市熊野町(字 黒木甲)
駐車場:常国寺の駐車場があるが利用して良いか不明
遺構:曲輪、土塁、竪堀、土橋、堀切、井戸跡
標高:193メートル/比高:54メートル

 沼隈半島の中央に位置し山を越えれば鞆の浦に出ることができる。建武3(1339)年、渡辺持が戦功で足利尊氏から山田庄(城のある福山市熊野町)を与えられ中山城(福山市草戸町)を居城としたが、文明年間(1469~1487年、永正年間(1504~21年)とも)に後裔の渡辺兼が一乗山城を築城し移っている。
 渡辺氏は戦国時代に山名氏、大内氏に従った後、毛利氏に従った。天正4(1576)年、足利義昭が毛利氏を頼って鞆の浦に来ると警護を務めている。慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に押し込められると廃城となり、城主の渡辺景は一時浪人をしたのち通安寺の住職となり、息子らは福山城主となった水野氏に仕え三男は常国寺の住職となっている。

(全景)
全景

(登り口。この城の入口も獣除けの柵がある。本当に害獣が増えたよなあ)
登り口

登り口

(下の縄張図の曲輪群1。貯水池のある北側に突き出している)
曲輪群1

曲輪群1

曲輪群1

曲輪群1

曲輪群1

(曲輪2。七面大明神を祀った神社が建っている)
曲輪2

曲輪2

(堀切A。V字型になっており中央に土橋があった)
堀切A

堀切A

堀切A

堀切A

(畦状竪堀群B)
畦状竪堀群B

畦状竪堀群B

畦状竪堀群B

畦状竪堀群B

畦状竪堀群B

畦状竪堀群B

(曲輪3。散乱していた石は石垣が崩れたものか)
曲輪3

曲輪3

曲輪3

曲輪3

(曲輪4。石垣のようなものがちょこっとあった。ここは畑として登録されており住所は広島県福山市熊野町1426になる)
曲輪4

曲輪4

曲輪4

(曲輪5。まごうことなき主郭。南側にある石垣と盛り土が土塁か櫓台かで見解が分かれるらしい。自分には櫓台に見えるが)
曲輪5

曲輪5

曲輪5

曲輪5

曲輪5

曲輪5

曲輪5

(一旦、降りて畦状竪堀群Cに行く)
畦状竪堀群C

畦状竪堀群C

畦状竪堀群C

畦状竪堀群C

(畦状竪堀群D)
畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

畦状竪堀群D

(畦状竪堀群Dの先にある横井戸)
横井戸

(南の堀切。柵があるので諦めたが詳しい方から後で入れる箇所があると聞いた)
南の堀切

参考文献:広島県の地名、広島の中世城館を歩く、福山の史蹟めぐり (備後文化シリーズ ; 第1集) 、福山市熊野町誌

感想:地元の方によって非常によく整備されており見学しやすいです。畦状竪堀群Bは道がないので見学するには注意が必要ですが、畦状竪堀群Cは道がついているので気軽に見られます。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図

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掲載の縄張図について


備後 阿草城(高尾城。古志三郎左衛門景勝の城)

●備後 阿草城(高尾城)
住所:広島県尾道市高須町
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、竪堀、土橋
標高:160メートル/比高:82メートル

 築城年代は不明。島根県出雲市古志町を本拠としていた出雲古志氏の一族が永正年間(1504~1521年)の尼子氏の備後攻めの際、先陣として本郷城(広島県福山市本郷町)に入った。そして阿草城に古志三郎左衛門景勝を置く。やがて大内氏が備後に勢力を伸ばすと景勝は傘下となり、天文3(1534)年、大内氏に従う毛利元就が亀寿山城(福山市宮市町)を落とすとそちらに移った。
 天正2(1574)年、景勝は毛利氏に従って備中国吉城攻めで戦死し、景勝の息子・兵部少輔は毛利氏を離れ尼子再興軍に加わったが、天正6(1578)年に播磨上月城で戦死している。

(登り口付近。道が分からないので直登した)
登り口付近

(下の概略図にあるAの堀切と土橋)
堀切と土橋

堀切と土橋

堀切と土橋

(Bの畦状竪堀群)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(V字型の堀切から竪堀になる箇所)
V字型の堀切

V字型の堀切

V字型の堀切

V字型の堀切

(曲輪1)
曲輪1

(曲輪2)
曲輪2

曲輪2

(曲輪3)
曲輪3

曲輪3

(Dの畦状竪堀群)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(Eの竪堀)
竪堀

(曲輪4。鉄塔があった)
曲輪4

曲輪4

曲輪4

(曲輪5。おそらく主郭)
曲輪5

曲輪5

(全景)
全景

参考文献:広島県の地名、広島の中世城館を歩く、備陽史研究『山城志』第22集、松永市本郷町誌

感想:広島県の中でも畦状竪堀群が多い城の一つだそうです。畦状竪堀群で移動に苦労したせいで疲れてしまい北西の遺構を見るのを忘れました。
 上記での城の歴史ですが古志氏の伝承については諸説あって分からないそうです。広島県の地名には松江市古志町の古志氏とありましたが、それは流石にただの間違いかと・・・。

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図


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菩提所観音寺跡(熊谷氏の菩提寺跡)

●菩提所観音寺跡
住所:広島県広島市安佐北区三入
駐車場:不明

 広島県指定史跡。三入庄(現在の安佐北区三入、同区大林、同区大林、可部町上町屋など)の地頭・熊谷氏の菩提寺跡で、創建年代は不明だが正法山観音寺と称していた。天文10(1541)年8月から翌年6月まで大内義隆が尼子晴久に味方する勢力に対抗するため本陣を構えている(『房顕覚書』)。
 天正19(1591)年に熊谷氏が広島城下に移った上、慶長5(1600)年に主君の毛利氏が防長の減封され熊谷氏も従ったため衰微。その後も熊谷氏は家臣を墓参にさせていたようだが、文政8(1825)年に編纂された『芸藩通志』には現在と同じ状況になっていることが記載されている。
 境内の大半が畑になっているが石垣が残っている。

(見事な石垣)
石垣

(入口。この辺りに山門があったのだろうか)
入口

(現存の観音堂。如意輪観音像と熊谷氏の家紋が入った須弥壇(しゅみだん。仏像を安置する台)が安置してある)
観音堂

(清泉の井戸。永正14(1517)年の有田合戦で毛利元就によって射殺された熊谷元直の腕を洗い清めたという伝承が残っている。敗戦だったので腕だけを家臣が辛うじて持って帰ったのだろうか)
清泉の井戸

(熊谷氏菩提墓所。熊谷元直の息子・信直の墓もある。信直は毛利元就に仕え娘が吉川元春の妻であることは良く知られている)
熊谷氏菩提墓所

参考文献:広島県の地名、可部町史

感想:道を間違えて庭の狭い民家に入ってしまいJAFに電話をして提携先の方に出してもらいました。その後、その方が「観音寺跡は知っているけど行ったことがないから行きたい」と言われるので、何故か一緒に見学しました。