理窓院(宍戸元源夫妻と宍戸隆忠夫妻の墓)

●理窓院
住所:広島県安芸高田市甲田町下甲立1125
駐車場:あり

 真言宗御室派。本尊は大日如来。法源山薬師寺、法源山理窓院薬師寺とも称す。天平年間(729~749年)、行基が粟屋村(三次市粟屋町)に庵を建て薬師如来を安置したのが始まりと伝わる。大永2(1522)年、五龍城主・宍戸元源が当地に移転して元源の法名から一叟院と号した。寺領が100石あり、のちに毛利輝元から100石を加増されたが、福島正則が安芸の国主となると全て没収されたという。芸藩通志には永禄元(1558)年に創建とある。
 禅宗だったが寛永4(1627)年に石見の口羽村(島根県邑智郡邑南町の口羽地区)の延命寺の社音が入り真言宗に改宗し理窓院と号する。昭和初期には衰微し廃寺寸前となったが太平洋戦争後に再興され、近世に建てられて傷んでいた伽藍が修築され現在に至る。
 行基が安置した薬師如来は霊験あらたかで宍戸隆家が厚く信仰し、近世には流行り病が平癒するとのことで近隣住民からの信仰が厚かった。

(山門)
山門

金剛像

(本堂)
本堂

(六角二重大師塔)
六角二重大師塔

(不動堂?)
不動堂

不動堂

(六地蔵)
六地蔵

(宍戸元源夫妻の墓)
宍戸元源夫妻の墓

宍戸元源夫妻の墓

(元源の次男・宍戸隆忠とその妻の墓)
宍戸隆忠夫妻の墓

(寺に隣接している甲立古墳)
甲立古墳

参考文献:広島県の地名、現地の案内板、甲田町誌

感想:金剛像がお茶目な感じで印象に残っています。



安芸 頭崎城(平賀氏の居城)

●安芸 頭崎城
住所:広島県東広島市高屋町貞重
駐車場:なし
遺構:曲輪、掘切、畦状竪堀群、土塁、石垣
標高:502メートル/比高:249メートル

 広島県指定史跡。出羽国平鹿郡(現在の秋田県横手市など)から鎌倉時代に安芸に本拠を移した平賀氏が、出雲の尼子経久の安芸侵攻など戦乱の激化のため大永3(1523)年頃に築いたと伝わる。大永5(1525)年、安芸から尼子勢力を駆逐した大内氏は尼子に味方した平賀氏を攻めるが撃退した。
 天文5(1536)年から平賀氏の御家騒動が表面化すると父・平賀弘保と対立した平賀興貞は頭崎城に籠もって尼子氏を味方につけた。そのため平賀弘保に味方した大内義隆に攻撃されるが撃退している。しかし次第に大内義隆の軍勢に押されたため、尼子晴久が安芸での勢力を挽回を目的に出陣し吉田郡山城を攻めたが、天文10(1541)年に敗北し出雲に撤退した。これにより尼子氏に味方した勢力は劣勢となり頭崎城も落ちている。
 天文18(1549)年、平賀興貞の息子で家督を継いでいた隆宗が病死したため、大内義隆は自分の養子の隆保を強引に平賀氏の後継者とする。天文20(1551)年、陶晴賢が義隆を倒し毛利元就に隆保の攻撃を命じたため、頭崎城が元就によって攻撃され落ちた。その後、隆宗の弟・広相が跡を継ぎ平賀氏は頭崎城を居城として続いたが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に押し込められると、それに従い廃城になる。

(全景。これを見た時、「ここを登るのか。たいぎぃ」と思った)
全景

(入口。害獣が出て来ないように2016年には無かった柵がある)
入口

(下にスクロールするとある縄張図の標高359.0と書いてある辺り。削平地に見えたが遺構ではないようだ)
削平地

削平地

削平地

(鳥居の段)
鳥居の段

鳥居の段

鳥居の段

(鳥居の段を過ぎると城内に頭崎神社の標柱がある)
標柱

(三の丸。曲輪の一角には大永5(1525)年に大内軍を撃退したことを記念して建てられたと伝わる頭崎神社がある(大永3(1523)年の築城時とも)。神社の本殿は東広島市の重要文化財に指定されている)
鳥居の段

鳥居の段

鳥居の段

鳥居の段

(太鼓の段)
太鼓の段

太鼓の段

太鼓の段

(太鼓の段から南東を望む)
太鼓の段から南東を望む

(曲輪A。上り下りに難儀した)
曲輪A

曲輪A

曲輪A

(二の丸)
二の丸

二の丸

二の丸

(甲の丸)
甲の丸

甲の丸

甲の丸

(二の丸の南に見晴らし石のようなものが突き出していた)
見晴らし石

(通称・硝煙の段。現在は明治神宮が建っている)
硝煙の段

硝煙の段

硝煙の段

(平成12(2000)年の鳥取県西部地震により下段に移動したらしい。日本一の雑魚・鳥取県ごときが中四国の頭である広島県様に迷惑をかけて心苦しく思っています)
鳥取県西部地震

(甲の丸の北に位置する西の丸)
西の丸

西の丸

西の丸

(西の丸の西にある畦状竪堀群)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(北西の県道348号から車で登ると出られる駐車場。しかしGoogleストリートビューで見る限り348号自体が狭い上に城への道が荒れているので南西から登山した。この駐車場も曲輪らしい)
駐車場

駐車場

駐車場

(曲輪群Bの周辺。正直、どの辺りを歩いているのか分からなかった)
曲輪群B

曲輪群B

曲輪群B

参考文献:安芸の山城、広島県の地名、県史跡 平賀氏の遺跡、現地の案内板

感想:広すぎて一部しか廻れませんでした。
 駐車場が無くて困っていたら近くの農事組合法人の方に「ここなら誰も駐めんからええで」と言われて駐車スペースを教えてもらいました。ありがとうございました!
 ちなみに駐めたのは農事組合法人の駐車場ではありません。駐めると作業の邪魔になるので絶対に駐めないように。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


安芸 鏡山城(東西条地域の支配の拠点)

●安芸 鏡山城(鏡城)
住所:広島県東広島市鏡山二丁目
駐車場:あり
遺構:曲輪、虎口、掘切、竪堀、土塁、石垣、井戸跡、土橋
標高:331メートル/比高:103メートル

 国指定史跡。西条盆地の中央にあり周囲の一望が可能で四方への移動にも便利という絶好の場所にあった。築城年代は不明だが周防の大内氏が安芸に進出した14世紀後半頃だと考えられている(異説あり)。
 東西条(現在の東広島市と呉市の一部を含む地域)の支配拠点として大内氏が重視し、応仁の乱前後には安芸の国人領主だった小早川氏や毛利氏などを巻き込んで、安芸守護・安芸武田氏と争奪戦が繰り広げられた。文明10(1478)年には大内氏が城の維持に関する規則を定めた「安芸国西条鏡城法式条々」が発令している。鏡山城には大内氏の東西条の行政官と城督を兼ねた内藤弘矩、杉武明、陶興房ら重臣が任命され、その代官が現地に赴いた。
 大永3(1523)年、出雲の尼子経久が安芸に侵攻し毛利氏などを味方につけ鏡山城を攻撃し手に入れる。だが大永5(1525)年頃に大内氏によって安芸から尼子勢が駆逐されると峻険な曽場が城に拠点が移され鏡山城は廃城となった。

(全景)
全景

全景

(城の北東にある奥田大池。当時からあったのかは不明)
奥田大池

(仮称 東出丸)
仮称 東出丸

(東出丸にある竪堀)
竪堀

(東側の登山道)
東側の登山道

(掘切と土橋)
掘切と土橋

掘切と土橋

(あちこちに石が点在していた)
石

(下にスクロールするとある縄張図の5郭(通称・下のダバ)。井戸跡もある)
5郭

5郭

5郭

(4郭(大手門跡))
4郭

(アの虎口の部分)
虎口

(3郭(通称・馬のダバ))
3郭

3郭

(西端の堀切と郭)
西端の堀切と郭

西端の堀切と郭

西端の堀切と郭

西端の堀切と郭

西端の堀切と郭

(北西の畦状竪堀群)
北西の畦状竪堀群

北西の畦状竪堀群

(北側の郭。ここにも井戸跡がある)
北側の郭

北側の郭

(2郭(通称・中のダバ)。ここにも井戸跡がある)
2郭

2郭

2郭

2郭

2郭

(1郭(通称・御殿場))
1郭

1郭

(1郭から北西方面を望む)
北西方面

(南側の畦状竪堀群。目視だとはっきり分かったが写真だと伝わりづらい。遺構あるあるだな)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(南郭群)
南郭群

南郭群

南郭群

南郭群

参考文献:広島県の地名、安芸の山城、東広島市公式サイト、鏡山城跡リーフレット

感想:散歩されている地元の方が多くおられ、麓では歌っている方もいました。地元で親しまれている山でした。
 写真は土砂崩れ前の2016年と後の2024年が混在しています。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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