米山寺(小早川家の菩提寺)

●米山寺(小早川家の菩提寺)
住所:広島県三原市沼田東町納所460
駐車場:あり

 山号は東慮山。仁平3(1153)年、天台宗として創建された。嘉禎元(1235)年、小早川茂平が鎌倉幕府三代の将軍の菩提を弔うため念仏堂を建立して小早川氏の氏寺とする。延文2年(正平12、1357)年、臨済宗に改宗した。歴代住持の数名は小早川家から出ており関係が非常に深かった。天正4年(1576)、小早川隆景が寺名を米山寺に改める。
 慶長5(1600)年、関ヶ原の戦い後に住職が毛利氏に従って山口に移ったため無住となった上、伽藍が焼けて荒廃するが、宗光寺の住職が再興し曹洞宗に改宗した。
 寺宝に絹本著色小早川隆景像(国指定重要文化財)、木造小早川隆景像(市指定重要文化財)などがある。

(山門。上から2001年、2009年、2014年、現在)
山門

山門

山門

山門

(本堂)
本堂

(小早川家墓所。2018年の西日本豪雨で裏山が土砂崩れのため埋没したが、クラウドファンディングなどで2021年に復旧した。上が被害前、下が普及後の写真)
小早川家墓所

小早川家墓所

(小早川家復旧工事の名簿。クラウドファンディングの三万円のところに自分の名前があったが記憶にない・・・。「山陰で一番ケチな自分が三万も出すか!?」と、しばらく名簿の前で自問自答していた)
小早川家復旧工事の名簿

(小早川隆景の墓)
小早川隆景の墓

感想:移した写真の記録を見てみたら四度も参拝しているみたいです。潜在的に隆景が好きなのだろうか・・・。





安芸長見山城(渡辺氏の城)

●安芸長見山城
住所:広島県安芸高田市甲田町下小原
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、堀切など
標高:241メートル/比高:40メートル

 毛利氏の譜代・渡辺氏の城。渡辺勝が毛利元就の弟・相合元綱を当主に擁立しようとして殺されてしまうと、息子・通は下小原を去るが後に元就に許され当地(下小原)に戻ったようである。勝の孫・長は下小原の代官に命じられた。

(全景。北東から南西にかけての丘全体が城域である)
全景

(丘全体が城域と書いたが、北東はなだらかで防御施設とは言い難いかもしれん)
北東

北東

北東

北東

(丘の中心辺りに堀切があり、ここからが城域かも)
堀切

(中心にある曲輪群。縄張図を見ると曲輪の周囲に畦状竪堀があるらしいが判別できんかった)
中心にある曲輪群

中心にある曲輪群

中心にある曲輪群

中心にある曲輪群

(中心にある曲輪群その2。主郭には城址碑とお堂が建っていた。城址碑かお堂か分からんけど、寄付したのは県内に住む渡辺一族の後裔のようだ)
中心にある曲輪群その2

中心にある曲輪群その2

城址碑

お堂

(南西にある釣井ヶ鼻と呼ばれる曲輪群)
釣井ヶ鼻

釣井ヶ鼻

釣井ヶ鼻

釣井ヶ鼻

感想:畦状竪堀以外は確認しやすい城でした。

(ルートマップ)
ルートマップ





2015年庄原市史跡巡り(その3:講演会「厳島合戦と備後国」)

 東城町を後にして庄原市内の目指す。同じ市内なのにとにかく遠かった…。市街地に着いたらちょうどお昼になったので市役所前のお好み焼き屋で庄原焼きという物を食べる。御飯と野菜が入っていてポン酢で食べるという変わったものだった。
 それから前述のように図書館に移動して鹿介の首塚について調べてもらうが詳しいことは何も分からず、講演会「厳島合戦と備後国」の会場・庄原市ふれあいセンターに向かう。
 13時半に始まるにも関わらず、13時過ぎにはぼちぼち人が集まっていた。
 13時半になると主催の県立広島大学の紹介があり、13時45分頃から本題に入った。内容を要約すると以下の通り。

・毛利元就は陶晴賢の謀叛に加担しており、晴賢に呼応して広島市の安佐南区・中区・東区辺りを手に入れた。
・石見の三本松城(津和野城)の吉見正頼が晴賢に反旗を翻した時、隆元は元就自身が津和野方面に出兵することにくどくどと反対(資料として配られた隆元書状を後から読み直したら同じようなことを何度も書いていた)。理由は元就が行けば晴賢に捕まって毛利家が滅ぶから。最初からだと思うが、晴賢・毛利家ともに相手を信用していなかったようである。

・備後が不安定だと晴賢と戦う際に背後を気にしないといけない。そのため毛利家は尼子氏の配下だった備後の山内氏を味方に引き入れ、尼子氏に通じていた海賊・宇賀嶋衆(尾道市の向島の一部を本拠地としていた)を小早川隆景らが武力で制圧。これで備後は安定し背後を気にする必要は無くなった。

 他にもたくさんのお話しを聞けたが、主要な部分はこんなところである。
 その後の質問タイムでは一人目のおじさんが「毛利が…家紋が…世界平和が…」と質問と言うより演説を始めた。まあ講演会では良くある光景である。
 二人目も「厳島の戦い後に主君筋の大内義長がいた防長を攻めているが大義名分はあったのか」という今回とはあまり関係のない質問だったが(本人もそう言っていた)、一人目よりはましだった。
 それに対して講師の秋山先生は「大義名分は分からない。しかし徳山の辺りにいた陶一族を滅ぼすために防長に攻め込む必要があった」とはっきりしない答えをされていた。

 そんな訳で講演会は終了。高速を使って帰っても良かったが所要時間が同じだったので下道を通って帰った。「昔広島に住んでた頃、ETC割引や松江自動車道が無かったから、こうやって帰っていたなあ」とか思い出に耽りながら。下道も整備されてかなり走りやすくなっていた。
本日の感想:厳島合戦や毛利に関しては通説しか知らないので、当時の陶・尼子の動きも含めて勉強になりました。
 しかしどいつもこいつもあくどい連中ばかりだな…(褒め言葉です)。そして毛利家は手紙の内容がくどい。

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