備前 徳倉城(松田氏、宇喜多氏の城)

●備前 徳倉城
住所:岡山県岡山市北区御津河内
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、石垣、掘切、竪堀、井戸跡
標高:230メートル/比高:165メートル

 岡山県指定史跡。遠藤山(通称・城山)に築かれている。美作と備中の交通の要衝にあり、北に三谷川が流れ旭川と合流している。
 築城者、築城年代ともに不明だが、康安2(正平17,1362)年に山陰の山名時氏が備中守護・高師秀のいる松山城を攻めた際、師秀が徳倉城に撤退した。ただしこの時、撤退した城は徳倉城ではないとの説もある。他の城主に須々木備中守、松田親秀などが伝わる。
 戦国時代は松田氏の重臣・宇垣市郎兵衛が居城としていたが宇喜多直家の勢力拡大に伴い永禄10(1567)年頃には退去したという。その後、直家の家臣・遠藤河内守(浮田河内守)が城主となったが、関ヶ原の戦いで宇喜多氏が改易され備前に小早川秀秋が入ると廃城になった。

(入口。県指定史跡なだけあってしっかりしている)
入口

(と思ったら登山道が荒れていた。雨で石が崩れたのだろうか。ここを通り抜けると道が綺麗になった)
登山道

登山道

(Ⅷの曲輪群。場所は下の縄張図を参照)
Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

(Ⅴの曲輪。ここも含めて石垣は宇喜多時代のものらしい)
Ⅴの曲輪

Ⅴの曲輪

(1の掘切。一番写真で伝わる掘切の構図がいつも同じになってしまうのが最近の悩み)
1の掘切

1の掘切

(Ⅳの曲輪群。土塁があった)
Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

(Ⅲの曲輪)
Ⅲの曲輪

Ⅲの曲輪

Ⅲの曲輪

(ⅢとⅠの曲輪の間にある曲輪にあった井戸跡)
井戸跡

(Ⅱの曲輪とその北側)
Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

(主郭であるⅠの曲輪。中央には妙見菩薩が祭ってある)
Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

(Ⅰの曲輪の南側)
Ⅰの曲輪の南側

Ⅰの曲輪の南側

(ⅠとⅥの間の曲輪)
ⅠとⅥの間の曲輪

ⅠとⅥの間の曲輪

ⅠとⅥの間の曲輪

(3の竪堀)
竪堀

(Ⅵの曲輪)
Ⅵの曲輪

Ⅵの曲輪

Ⅵの曲輪

(Ⅵの曲輪の南にある竪堀)
南にある竪堀

(Ⅸの曲輪群。ここは未整備だったので少しだけ見て引き返した)
Ⅸの曲輪群

Ⅸの曲輪群

(帰りに寄ったⅦの曲輪群。疲れていたので少し登って終わりにした。ここも未整備だったし)
Ⅶの曲輪群

Ⅶの曲輪群

(轟音がするなと思っていたら西に5キロほど行ったところにある岡山空港から飛び立った飛行機だった)
飛行機

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編、岡山県の地名、日本城郭大系

感想:整備された部分も多く大部分の道は綺麗で見学しやすい山城だと思います。駐車場だけが問題ですが・・・。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


草苅家祖鎮魂之碑(草刈景継の後裔)

●草苅家祖鎮魂之碑
住所:岡山県勝田郡奈義町馬桑
駐車場:なし

 美作の矢筈城主・草刈景継は毛利氏に従っていたが、天正6(1578)年に織田信長への内通が発覚し毛利氏によって切腹させられる。草刈家は弟の重継が跡を継ぐが、景継の息子・景久は草刈家に残った。天正13(1585)年、毛利輝元と豊臣秀吉の和議が正式に決まると草刈重継は美作を退去する。だが景久は郎党と共に美作に残り因幡との国境付近の木地山で帰農した。
 慶長10(1605)年、津山藩主・森忠政の援助で因美を往来する旅人のために茶屋を建てる。しかし明治17(1884)年に津山藩から援助がなくなり、やがて茶屋は廃業。草刈家は昭和26(1951)年に南の集落に転居し、昭和46(1971)年に釣り堀「ひらめの家」を開いたが平成6(1994)年に廃業している。

(平成3(1991)年に子孫が建てた鎮魂之碑。横には由緒が書いてある)
碑

(碑の裏の山が木地山だと思って撮影したが反対側だったらしい。まあこの辺りも旅人が通ったのだろう。北側に難所の黒尾峠があるが現在はトンネルが通っており、歩いても鳥取県八頭郡智頭町に行けるくらいの距離にある)
山

山

山

(馬桑川)
馬桑川

参考文献:現地の案内板、作州のみち 1 (峠・木地師の道)、美作誌 前編 (東作誌)、津山瓦版

感想:トンネルと碑の間に駐車スペースがあります。
 「明治17(1884)年に津山藩から援助が・・・」と書きましたが、この頃は廃藩置県後なので岡山県から援助があったのでしょう。



備中 幸山城(高山城、甲山城。石川氏、小早川隆景、宇喜多秀家の城)

●備中 幸山城(高山城、甲山城)
住所:岡山県総社市西郡・清音三因
駐車場:あり
遺構:曲輪、堀切、土塁、土橋
標高:159メートル/比高:-43メートル

 『備中府志』には延慶年間(1308~11年)に庄左衛門四郞資房が築城し、応永年間(1394~1428年)に備中守護・細川氏の被官だった石川氏が城主になったという。天文22(1553)年の幸山表の戦いで三村家親に属していた渡辺盛忠は敵の荒木七郎三郎を討った。永禄10(1567)年、明禅寺合戦で城主の石川久智は三村氏に属したため宇喜多直家の軍勢によって戦死している。
 元亀2(1571)年1月には毛利家は尼子再興軍らと手を結んで対抗していた浦上宗景の攻撃に備え栗屋就方らを守備に向かわせたが2月には落ちた。しかしその後、石川久智の跡を継いだ石川久式と毛利軍の活躍で奪回されている。天正3(1575)年、石川久式は毛利氏に反旗を翻した三村元親に付き敗北したため自害。城は毛利氏の支配下となり、天正5(1577)年に宇喜多直家を援護するため湯浅将宗を幸山城に向かわせた。この頃、毛利氏は拡張工事を行っている。天正10(1582)年の羽柴秀吉による備中高松城攻めでは小早川隆景が在城した。その後、備中が宇喜多秀家の領地になると幸山城は直轄となったが慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで秀家が改易されると廃城になる。

(南側にある土橋と堀切。場所は下の縄張図を参照)
土橋

土橋

堀切

堀切

堀切

堀切

(中央にある三日月の形をしている曲輪の南側(堀切などがある方向)から撮影。土塁の外側にある自然の石を利用しているようだ)
曲輪の南側

曲輪の南側

(中央の曲輪の南にある虎口)
虎口

(中央の曲輪。上記にも書いたが土塁があった)
中央の曲輪

中央の曲輪

中央の曲輪

中央の曲輪

中央の曲輪

(上記の北にあるUの字の形の曲輪)
Uの字の形の曲輪

Uの字の形の曲輪

Uの字の形の曲輪

Uの字の形の曲輪

(もっとも北側にある主郭と思われる曲輪)
主郭

主郭

主郭

(主郭から見た北を望む。旧・山手村の中心部のようだ)
旧・山手村の中心部

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編、岡山県の地名、現地の案内板

感想:福山城に行く途中、看板が見つけて行ってみました。
 比高がマイナスになっているのは和霊神社から降って行ったからです。結局、登って戻らないといけないのでマイナス・プラスどちらでも一緒ですが。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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