備中 福山城(福山合戦の舞台)

●備中 福山城
住所:岡山県総社市西郡、清音三因(字 福山)
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、門跡、堀
標高:301メートル/比高:119メートル

 国指定史跡。西に高梁川、北に山陽道、南には瀬戸内海が一望できる福山に築城された。
 鎌倉時代末期、真壁小六是久が築城したと伝えられる。建武2(1335)年、足利尊氏に味方する佐々木信胤らが福山城に籠もったため、後醍醐天皇側の軍勢が攻撃を仕掛けたが、撃退された。建武3(1336)年、九州に逃れた足利尊氏が勢力を盛り返し東進する。この際、後醍醐天皇に従う脇屋義助の配下である大井田氏経や周布兼宗らが福山城に籠城し、足利方の軍勢と交戦するも敗走した。これが、いわゆる「福山合戦」である。
 元亀2(1571)年の尼子再興軍の備中侵攻の際、幸山城の留守を預かっていた日幡六郎兵衛らは農民を率いて福山城に出て、南の浅原峠を守ったという。天正10(1582)年、毛利輝元の家臣・門司親宗が在城した。

(駐車場から登ると出てくる城址碑。これから碑がたくさん出てくる)
城址碑

(北側の入口。場所は下の概略図を参照)
入口

(福山合戦故将士慰霊之碑)
福山合戦故将士慰霊之碑

(門跡の礎石らしい。ここにも城址碑があった)
門跡の礎石

門跡の礎石

(北側に土塁があった)
北側に土塁

北側に土塁

北側に土塁

(井戸跡)
井戸跡

(北の曲輪の西にある土塁。土塁というか地面を削ってあるというか・・・。用途が不明)
西にある土塁

西にある土塁

西にある土塁

(高梁川方面を望む)
高梁川方面

(北の曲輪にある神社跡)
神社跡

(北の曲輪の東側)
北の曲輪の東側

北の曲輪の東側

(南の曲輪。こちらは道以外は整備されていなかった)
南の曲輪

南の曲輪

南の曲輪

南の曲輪

参考文献:岡山県の地名、岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編

感想:後醍醐天皇に味方した忠臣の城ということで顕彰碑などが多く建っていましたが、全ては載せていないです。
 地元の方の散歩コースらしく朝からたくさんの方がおられました。

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図



備中 正霊山城(備中藤井氏の居城)

●備中 正霊山城
住所:岡山県井原市芳井町吉井(字 東吉井)
駐車場:なし
遺構:曲輪、掘切、竪堀
標高:109メートル/比高:45メートル

 北から東にかけて小田川が流れ、天然の濠となっている。南東では小田川と宇戸川が合流し、水運の要衝となっていた。現在は麓に井原市役所の芳井支所があり、広島県神石郡と岡山県高梁市の分岐点となっていることから、陸運の要衝である。当時も同様の状況だったと考えられる。
 築城年代は不明だが、有井城主であった藤井好重が築き、息子の藤井皓玄が城主になったと伝わる。皓玄は神辺城主・山名忠興の家臣であったが、弘治3(1557)年に忠興が跡継ぎがいないまま亡くなって同じ家臣の杉原盛重が毛利氏の意向で神辺城主となったことに憤慨し、正霊山城に籠もって毛利氏に反抗した。だが毛利軍が迫ると京都に逃亡。
 同じく京都で浪人となっていた尼子家の山中鹿介幸盛や立原久綱らと知り合い、永禄12(1569)年に幸盛らが尼子再興戦を開始すると呼応して神辺城を奪取する。しかし九州から戻ってきた毛利軍に神辺城を奪い返され、皓玄の息子・広吉が守備していた高屋城も落とされた。皓玄も御嶽山(笠岡市)の麓で戦死している。

(全景)
全景

(南東の曲輪。場所は下の縄張図を参照)
南東の曲輪

南東の曲輪

南東の曲輪

南東の曲輪

(中央の建物(祠)が記載してある曲輪)
中央の建物

中央の建物

中央の建物

中央の建物

(上記の北にある主郭)
主郭

主郭

主郭

(主郭から芳井支所方面を望む。戦国時代は街道や河川の往来が見えていたのだろう)
芳井支所方面

(北の竪堀)
北の竪堀

(北の掘切。木が多く撮影に苦労した記憶がある)
北の掘切

北の掘切

北の掘切

北の掘切

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編、古城物語 (郷土史文庫 第4巻) 、現地の案内板

感想:永禄12(1569)年に藤井広吉も戦死しますが、息子の利道は生き残り三村親成に仕えます。のちに浪人時代の水野勝成が成羽に寄食した際に知り合い、利道の娘の香源院(於登久)を側室として迎えています。香源院は二代藩主の水野勝俊を産んでいます。
 また利道の息子で香源院の兄である好直は、勝成が備後福山藩主になると重臣となっています。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


備中 亀迫城(毛利氏の備中侵攻の橋頭堡)

●備中 亀迫城
住所:岡山県井原市西江原町三本森(字 亀迫)
駐車場:あり
遺構:曲輪
標高:69メートル/比高:20メートル

 元亀元(1570)年、備中の支配を固めようとする毛利氏は毛利元清を大将に後月郡(現在の井原市の大半)に進軍し亀迫城を築いたと伝わっている。そして高越城と同じく宍戸隆家の家臣の木村平内と神田六兵衛が入城したという。
 慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に去ると廃城になったと推測されている。

(南西の曲輪群。場所はスクロールすると下に掲載されている縄張図を参照)
南西の曲輪群

南西の曲輪群

南西の曲輪群

南西の曲輪群

(中央の曲輪群)
中央の曲輪群

中央の曲輪群

(北東にある主郭。古代の石棺があった)
北東にある主郭

北東にある主郭

北東にある主郭

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編、現地の案内板

感想:まあ・・・ただの公園でしたね。高越城からの帰りにカーナビのマップで城が出てきたので寄ってみました。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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