大岩刻早雲供養碑(伊勢新九郎盛時(北条早雲)の供養碑)

●大岩刻早雲供養碑
住所:岡山県井原市東江原町(字 森川東)
駐車場:なし

 高さ4.5メートル、幅6メートルの大岩。伊勢新九郎盛時(北条早雲)の供養碑で「普早雲寺殿天岳瑞公大居士墳」と刻まれている。高越城主であった伊勢氏の家臣・平井保昌の後裔を名乗る平井盛久が、正徳5(1715)年に早雲の二百回忌のために刻んだ。

(入口。距離は短いが山道なので注意が必要)
入口

入口

(参道。先に見えるのが道了尊である。道了は室町時代に相模の寺で修行していた僧であったが、師が亡くなると天狗となり姿を消した。その姿を彫った石仏を安政6(1859)年に安置された。危険だったため、近づいていない)
参道

参道

(早雲供養碑。梯子を登って戒名が見られるようになっている)
早雲供養碑

早雲供養碑

参考文献:北条早雲 素生考、現地の案内板、戦国の名将 北条早雲(パンフレット)、荏原郷 森谷の史話、井原史料 第3集、井原史料 第2集

感想:正徳5(1715)年は二百回忌そのものではなく、二百回忌供養の準備のために碑を刻んだ年であるようです。


新九郎薬師堂(伊勢新九郎盛時(北条早雲)作の薬師如来立像ヵ)

●新九郎薬師堂
住所:岡山県井原市神代町
駐車場:なし

 新九郎薬師堂には、伊勢新九郎盛時(北条早雲)が故郷に戻った際に祀ったと伝わる、戦国時代の作と思われる薬師如来立像が安置されている。もともとは高越城の中腹にある薬師庵にあり「新九郎薬師」と呼ばれていた。
 昭和44(1969)年に太子堂に合祀された際、像の背面に「祈願主新九郎」と花押があることが確認された。しかし、この花押は北条早雲のものとは異なることから、祈願主の名や花押は近世の修理時に記されたものであると推測されている。

新九郎薬師堂

新九郎薬師堂

新九郎薬師堂

参考文献:北条早雲 素生考、現地の案内板、戦国の名将 北条早雲(パンフレット)

感想:駐車する場所がなくて困りました。


備中 福山城(福山合戦の舞台)

●備中 福山城
住所:岡山県総社市西郡、清音三因(字 福山)
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁、門跡、堀
標高:301メートル/比高:119メートル

 国指定史跡。西に高梁川、北に山陽道、南には瀬戸内海が一望できる福山に築城された。
 鎌倉時代末期、真壁小六是久が築城したと伝えられる。建武2(1335)年、足利尊氏に味方する佐々木信胤らが福山城に籠もったため、後醍醐天皇側の軍勢が攻撃を仕掛けたが、撃退された。建武3(1336)年、九州に逃れた足利尊氏が勢力を盛り返し東進する。この際、後醍醐天皇に従う脇屋義助の配下である大井田氏経や周布兼宗らが福山城に籠城し、足利方の軍勢と交戦するも敗走した。これが、いわゆる「福山合戦」である。
 元亀2(1571)年の尼子再興軍の備中侵攻の際、幸山城の留守を預かっていた日幡六郎兵衛らは農民を率いて福山城に出て、南の浅原峠を守ったという。天正10(1582)年、毛利輝元の家臣・門司親宗が在城した。

(駐車場から登ると出てくる城址碑。これから碑がたくさん出てくる)
城址碑

(北側の入口。場所は下の概略図を参照)
入口

(福山合戦故将士慰霊之碑)
福山合戦故将士慰霊之碑

(門跡の礎石らしい。ここにも城址碑があった)
門跡の礎石

門跡の礎石

(北側に土塁があった)
北側に土塁

北側に土塁

北側に土塁

(井戸跡)
井戸跡

(北の曲輪の西にある土塁。土塁というか地面を削ってあるというか・・・。用途が不明)
西にある土塁

西にある土塁

西にある土塁

(高梁川方面を望む)
高梁川方面

(北の曲輪にある神社跡)
神社跡

(北の曲輪の東側)
北の曲輪の東側

北の曲輪の東側

(南の曲輪。こちらは道以外は整備されていなかった)
南の曲輪

南の曲輪

南の曲輪

南の曲輪

参考文献:岡山県の地名、岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編

感想:後醍醐天皇に味方した忠臣の城ということで顕彰碑などが多く建っていましたが、全ては載せていないです。
 地元の方の散歩コースらしく朝からたくさんの方がおられました。

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図