備中 高越城(備中伊勢氏の居城)

●備中 高越城
住所:岡山県井原市東江原町高越(字 今屋)
駐車場:あり
遺構:曲輪、掘切、竪堀
標高:170メートル/比高:42メートル

 市指定史跡。弘安4(1281)年、元寇襲来に備えて関東から九州に向かう宇都宮貞綱が山陽道の要衝として築城したと伝わる。享徳2(1453)年、伊勢新左衛門が居城して以降は備中伊勢氏の居城だったようである。また、備中伊勢氏の一族には伊勢新九郎(のちの北条早雲)がいたとされる。
 永禄9(1566)年、伊勢氏の最後の当主・又五郎は尼子氏の居城だった月山富田城攻めに参加して戦死した。以降は毛利氏の城となり、天正9(1581)年に宍戸隆家の家臣の木村平内と神田六兵衛が入城している。

(全景)
全景

(復元した門。模擬門と表現した方が正しいかも)
復元した門

(曲輪1。場所は下の概略図を参照)
曲輪1

曲輪1

(曲輪1の南にある掘切)
掘切

(道路建設で破壊されたと思われる曲輪跡)
曲輪跡

(三の郭)
三の郭

(一の郭と一段下にある帯曲輪。主郭になる。北条早雲誕生の地を推していた)
一の郭と一段下にある帯曲輪

一の郭と一段下にある帯曲輪

一の郭と一段下にある帯曲輪

一の郭と一段下にある帯曲輪

一の郭と一段下にある帯曲輪

一の郭と一段下にある帯曲輪

一の郭と一段下にある帯曲輪

(一の郭と三の郭の間に竪堀があったらしいが全く分からなかった)
竪堀

(四の郭)
四の郭

四の郭

(二の郭)
二の郭

二の郭

二の郭

(一の郭から南側(小田川)方面を望む)
南側(小田川)方面を望む

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊 備中編、岡山県の地名、井原の山城を歩く、現地の案内板

感想:見ての通り整備されており見学しやすかったです。ただ時期が悪かったのか四の郭や二の郭でクマバチが飛んでおり怖かったです。

(概略図)
概略図



備前 徳倉城(松田氏、宇喜多氏の城)

●備前 徳倉城
住所:岡山県岡山市北区御津河内
駐車場:なし
遺構:曲輪、土塁、石垣、掘切、竪堀、井戸跡
標高:230メートル/比高:165メートル

 岡山県指定史跡。遠藤山(通称・城山)に築かれている。美作と備中の交通の要衝にあり、北に三谷川が流れ旭川と合流している。
 築城者、築城年代ともに不明だが、康安2(正平17,1362)年に山陰の山名時氏が備中守護・高師秀のいる松山城を攻めた際、師秀が徳倉城に撤退した。ただしこの時、撤退した城は徳倉城ではないとの説もある。他の城主に須々木備中守、松田親秀などが伝わる。
 戦国時代は松田氏の重臣・宇垣市郎兵衛が居城としていたが宇喜多直家の勢力拡大に伴い永禄10(1567)年頃には退去したという。その後、直家の家臣・遠藤河内守(浮田河内守)が城主となったが、関ヶ原の戦いで宇喜多氏が改易され備前に小早川秀秋が入ると廃城になった。

(入口。県指定史跡なだけあってしっかりしている)
入口

(と思ったら登山道が荒れていた。雨で石が崩れたのだろうか。ここを通り抜けると道が綺麗になった)
登山道

登山道

(Ⅷの曲輪群。場所は下の縄張図を参照)
Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

Ⅷの曲輪群

(Ⅴの曲輪。ここも含めて石垣は宇喜多時代のものらしい)
Ⅴの曲輪

Ⅴの曲輪

(1の掘切。一番写真で伝わる掘切の構図がいつも同じになってしまうのが最近の悩み)
1の掘切

1の掘切

(Ⅳの曲輪群。土塁があった)
Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

Ⅳの曲輪群

(Ⅲの曲輪)
Ⅲの曲輪

Ⅲの曲輪

Ⅲの曲輪

(ⅢとⅠの曲輪の間にある曲輪にあった井戸跡)
井戸跡

(Ⅱの曲輪とその北側)
Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

Ⅱの曲輪

(主郭であるⅠの曲輪。中央には妙見菩薩が祭ってある)
Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

Ⅰの曲輪

(Ⅰの曲輪の南側)
Ⅰの曲輪の南側

Ⅰの曲輪の南側

(ⅠとⅥの間の曲輪)
ⅠとⅥの間の曲輪

ⅠとⅥの間の曲輪

ⅠとⅥの間の曲輪

(3の竪堀)
竪堀

(Ⅵの曲輪)
Ⅵの曲輪

Ⅵの曲輪

Ⅵの曲輪

(Ⅵの曲輪の南にある竪堀)
南にある竪堀

(Ⅸの曲輪群。ここは未整備だったので少しだけ見て引き返した)
Ⅸの曲輪群

Ⅸの曲輪群

(帰りに寄ったⅦの曲輪群。疲れていたので少し登って終わりにした。ここも未整備だったし)
Ⅶの曲輪群

Ⅶの曲輪群

(轟音がするなと思っていたら西に5キロほど行ったところにある岡山空港から飛び立った飛行機だった)
飛行機

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編、岡山県の地名、日本城郭大系

感想:整備された部分も多く大部分の道は綺麗で見学しやすい山城だと思います。駐車場だけが問題ですが・・・。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


掲載の縄張図について


草苅家祖鎮魂之碑(草刈景継の後裔)

●草苅家祖鎮魂之碑
住所:岡山県勝田郡奈義町馬桑
駐車場:なし

 美作の矢筈城主・草刈景継は毛利氏に従っていたが、天正6(1578)年に織田信長への内通が発覚し毛利氏によって切腹させられる。草刈家は弟の重継が跡を継ぐが、景継の息子・景久は草刈家に残った。天正13(1585)年、毛利輝元と豊臣秀吉の和議が正式に決まると草刈重継は美作を退去する。だが景久は郎党と共に美作に残り因幡との国境付近の木地山で帰農した。
 慶長10(1605)年、津山藩主・森忠政の援助で因美を往来する旅人のために茶屋を建てる。しかし明治17(1884)年に津山藩から援助がなくなり、やがて茶屋は廃業。草刈家は昭和26(1951)年に南の集落に転居し、昭和46(1971)年に釣り堀「ひらめの家」を開いたが平成6(1994)年に廃業している。

(平成3(1991)年に子孫が建てた鎮魂之碑。横には由緒が書いてある)
碑

(碑の裏の山が木地山だと思って撮影したが反対側だったらしい。まあこの辺りも旅人が通ったのだろう。北側に難所の黒尾峠があるが現在はトンネルが通っており、歩いても鳥取県八頭郡智頭町に行けるくらいの距離にある)
山

山

山

(馬桑川)
馬桑川

参考文献:現地の案内板、作州のみち 1 (峠・木地師の道)、美作誌 前編 (東作誌)、津山瓦版

感想:トンネルと碑の間に駐車スペースがあります。
 「明治17(1884)年に津山藩から援助が・・・」と書きましたが、この頃は廃藩置県後なので岡山県から援助があったのでしょう。