2014年大坂の陣巡り(3日目その2:常光寺)

 慰霊祭を後にして河内国分駅から近鉄八尾駅に移動した。次の目的は常光寺で行われている「大坂夏の陣”蘇る八尾の戦い”」。まさかの八尾の戦い長宗我部盛親藤堂高虎がクローズアップされているイベント。

(この旗が駅から常光寺まであった)

(駅から10分くらいで常光寺に到着)

(長宗我部軍と藤堂軍に分かれて何かをやっていた)

(暑いため本堂で涼んでいる人達も結構いた)

 一通り祭りを見た後、常光寺内で催されていた「本尊御開帳」と「大坂の陣特別展」を見る。桑名弥次兵衛の位牌などは以前見たが書状や本尊は今回が初めてだった。
 それが終わると今度は墓地に行き八尾の戦いで戦死した藤堂家七十一士墓に参る。

(墓地の入り口にあった六地蔵。藤堂家の人達を導いているかどうかは知らん)

(藤堂家七十一士墓。案内が風のために無縁仏の方角を向いていた…。自分は前に来たことがあるから気づいたけど、気がつかなかった人が多そう)

 ここで「毛利勝永座談会と見学会」の参加者は解散。お疲れ様でした。自分はその後、渡辺勘兵衛の陣所跡の碑があるという穴太神社まで行ったのだが…碑が見当たらなかった。

(穴太神社の鳥居)

 自分もここで終了。家に帰った。


感想:濃い3日間だった。1日目の史跡巡り、2日目の夕方の座談会、2~3日目の参加者の皆様との会話、すべて価値のあるものだった。暑い中、大阪に行った甲斐があった。お会いした皆様、ありがとうございました。

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2014年大坂の陣巡り(3日目その1:仲哀天皇陵・玉手山公園)

 2014年6月1日(日)、今日は柏原市で行われる大坂の陣慰霊祭に参加するため、参加メンバー5人はホテルのロビーに集合し電車で河内方面に向かう。慰霊祭まで時間があったため藤井寺で降りて仲哀天皇陵に行った。道明寺の戦いの際、この辺りに毛利勝永が布陣していたらしい。
(仲哀天皇陵に向かう途中に建っていた幸国神社の拝殿。1500年前に創建されたとのことなので大坂の陣当時もあったのだろう)

(仲哀天皇陵。当たり前だが入ることはできない。周囲は住宅地になっていた)


 一通り見ると道明寺駅に移動。暑い…。とにかくみんなのテンションが低い。これから炎天下の中を歩いて玉手山公園に行き、その後に炎天下の中を河内国分駅まで行くんだから下がって当然だわ。

(途中渡った石川。道明寺の戦いでは後藤又兵衛を討ち取って勢いに乗る徳川軍が渡河し豊臣軍を攻撃している)

(坂道と暑さでやられみんなが無言になっていく中、やっと玉手山公園の大坂夏の陣戦没者供養塔の前に到着。取りあえず時間があるので日陰に避難して食事をした)

 この後、何を話したのかあまり覚えていない…。そのくらい強烈な暑さだった。
(時間になったため、もう一度大坂夏の陣戦没者供養塔の前に行く。すでにスタンバイOK)

 暑い中、慰霊祭が始まった。申し訳なかったが用事があったので退散。


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2014年大坂の陣巡り(2日目その2:毛利勝永座談会)

 汗を掻いたので一旦ホテルに戻って風呂に入った。その後に座談会があるのだが疲れて部屋で寝そうになった…。
 時間になったため座談会の会場に移動。十数名が集まり、主催者の挨拶と参加者の自己紹介が終わると発表者の一人目・Kさんの話が始まる。内容は史料から大坂落城の様子を探るというもの。

 いきなりレベルが高い…。自分がいるのが場違いなくらいで、ただ聞いているだけしかできなかった。
 その後は江戸時代に描かれた天王寺の布陣図をもとに戦況がどのようなものであったのかの説明。毛利勝永の陣の前には堀切があって容易に攻め込めないようになっていたらしい。そこからはみんなで議論が始まり、
「勝永は鉄砲で防戦していたが攻め込む好機だと考え突っ込んだ」
「幸村が真っ正面に進むのは無理だから迂回をして進んだ」
「思っていたよりも徳川軍は兵を展開出来なかったのではないか」
 などの意見が出た。

 その後はSさんが四天王寺は大坂冬の陣の際に焼かれたのではないかという話をされた。そして勝永の旧臣はどのくらい大坂城に入ったのか、勝永の性格はどうだったのか、などどう思われるかという議題を提示された。
 盛親好きが自分を合わせて二人いたので比較のためにちょろっと話をふられた。まあ自分が話せたのはそのくらいかな…。基本、聞くだけで精一杯でした。でも、自分みたいに知識のない人間にでも知識のある人が上から目線で話すわけでも無く、終始楽しくそして勉強になる座談会だった。来年は勝永鬼神の活躍から400年なので、また座談会があれば参加したい。史跡巡りは…大阪じゃなくて高知か北九州でした方がいいかも。

 そしてほとんどメンバーがホテルに移動し遅くまで戦国時代のことを中心に話をしていた。ここでもKさんの知識量が尋常ではなかった…。結局、夜の1時半頃まで話していた。