長宗我部盛親

(ちょうそかべもりちか)

生没年:1575〜1615年/ 身分:大坂城五人衆/ 官位(通称、号):宮内少輔

浦戸城
盛親が城主だった高知市浦戸にある浦戸城

【四国の覇者の後継者】幼名・千熊丸。四国の覇者、長宗我部元親の四男。1586年に長兄・信親が戸次川の戦いで戦死すると長宗我部家の後継者となる。信親が戦死した時点で元親には三人の息子がいたが、父の偏愛のため兄二人を差し置いて指名されたのだ。正式な後継者となった盛親は父と共に小田原征伐・朝鮮出兵に従軍する。
 1599年5月19日、元親が伏見で亡くなると土佐22万石を継ぐ。翌年、関ヶ原の戦いが起こると、盛親は東軍につこうとするが、家康への使者が近江で西軍に阻まれ、そちらに味方する他なくなってしまう。仕方なく長宗我部軍は6600ほどの兵を率いて、7月に大坂城に入城。各城を落とし9月初めに美濃に到着。そして同月15日朝、関ヶ原の戦いに参戦。だが、徳川家康に内応する吉川広家が前に居座って動かず、実際の戦闘には加わることが出来ないまま、敗戦を向かえる。

【凋落】なんとか土佐に逃げ帰った盛親は、親しい関係であった井伊直政を通じて家康に謝罪しようとする。だが、兄・津野親忠を殺害してしまい、家康の怒りを招き領土没収となった。
 その後、盛親は京都へ送られ謹慎生活に。そこで『大岩祐夢』と号して寺子屋の師匠となる。1614年秋に豊臣家から招きがあると家臣を率いて大坂に入城した。

【冬の陣では出番なし】大坂城内で盛親は二の丸の西中央と三の丸の八丁目口を担当することになる。八丁目口のある南側は徳川・豊臣軍共に主力軍を配置しており、激戦が予想される場所であった。だが、冬の陣は真田丸の攻防以外は小競り合いしかなく、盛親にほとんど出番のないまま和議が成立する。

盛親物見の松跡
八尾市久宝寺にある盛親物見の松跡

【八尾の血戦】1615年5月、盛親は木村重成隊などと共に八尾・若江方面に出撃することとなった。
 5月6日午前1時、彼らは約兵2万を率いて出発。未明には長宗我部隊は八尾方面に到着した。そこで同じく八尾方面に進撃していた藤堂高虎軍と、そのまま戦闘に突入する(八尾の戦い)。この戦いでの長宗我部隊の活躍はすさまじく、藤堂軍を壊滅寸前にまで追いこむ。だが、敵に援軍が駆け付けたために撤退を余儀なくされる。

【捕縛】勝利を諦めた盛親は次の日の天王寺・岡山での最終決戦には参加せず、大坂城の守りについていたが、敗北が決定的になると再起を図って逃亡した。だが運は盛親に味方せず、5月11日京都八幡近くの葭原に潜んでいるところを、蜂須賀家の家臣に見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。そして同月15日、六条河原で斬首される。

盛親の墓
京都市下京区富小路通六条上る本塩竈町534の蓮光寺にある盛親の墓

管理人・・・盛親は若い頃は短気だったようです。ですが14年にも及ぶ軟禁生活で人間が出来たのか、大坂城に入ったときは控え目な態度をとっています。真田幸村後藤基次(又兵衛)に作戦立案をさせ、自分は同意するだけに徹しています。

 冬の陣では大した活躍もなかったですけど、夏の陣では今まで溜めてたものが一気に爆発した感じで、徹底的に藤堂軍を叩きまくってます。夏の陣の前半戦(5月6日)で一番活躍したのは盛親でしょう。彼の再興に賭ける意気込みには感嘆します。皆が華々しい死を選んで行く中、何としてでも生き延びようとした不屈の闘志は感動させられます。
 以上、土佐再興に命を賭けた、名将・長宗我部盛親さんでした。

参考文献大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略真田戦記長宗我部元親―四国の雄、三代の栄光と苦悩

UPDATE 2001年5月15日
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