長宗我部康豊

(ちょうそかべやすとよ)

生没年:1599年頃〜?/ 身分:長宗我部隊の部将/ 官位(通称、号):民部

長瀬川
八尾の戦いで激戦地となった長瀬川

【元親の息子】長宗我部元親の六男。元親が死んだ時にはまだ母親のお腹の中だった。十数年後、兄・長宗我部盛親から長宗我部姓を名乗ることを許されて長宗我部康豊と名乗る。大坂の陣が起こると大坂に入城して長宗我部隊に属し、八尾の戦いで奮戦したが、大坂城が落ちたため城を脱出した。

【逃亡生活】康豊は京都の山科の辺りまで落ち延び、農家に入って着物を盗んでそれを着てさらに東に向かった。宇都宮にいる縁者を頼るつもりだったのである。東海道は警戒が厳しいので、裏道を通って食べ物を奪いながら進んでいたが、信濃の多賀明神に着いた頃はすっかり食べ物も無くなり、二日も食べ物を口にしていなかった。そこで絶望し死のうと思ったが、敵が満ちていた大坂城を脱出してここまで来たのは運がまだ尽きていないと思い直し、そこで一夜を過ごした。

多賀神社(明神)
康豊が落ち延びた長野県松本市出川町にある多賀神社(明神)

【餓死を免れる】翌日、康豊が泊まっていた明神に村人15人くらいが来て供物をして帰っていった。これは何か行事があると見た康豊は、彼らの跡をつけて集会場に行き「私は西国に住んでいた占い師だが、大坂の陣が起こって国に帰られなくなり、東に向かって進んでようやくここまで来た。占いたい事があれば即座に奇跡を見せてあげよう。安部晴明の子孫の安部康豊とは私のことだ。まずはこの家の主を当てて見せよう」と広言した。
 集まっていた村人達は彼に興味を持ち、「それなら当てて見せてくれ」と言ってきた。そこで康豊が、「この家の主はやがて一郷の長となる相が出ている。頭の上に白い煙が立って見えるぞ」と言うと、村人達はそっと亭主を見た。そこで康豊はみんなが見た村人を指して「そこの縞の羽織を着た方が主人だ」と見事当てて見せた。村人達は感心して、次々と占いを依頼した。康豊は適当な返事をしてそれらをあしらった後、村人達が出してくれた食事にありついた。それで何とか康豊は飢え死にせずにすみ更に宿まで提供してもらえた。

【一攫千金の好機】康豊は村人達の信頼を得て、適当な占いをしながら更に3日ほど過ごした。3日目に「四十両と検地帳の入った箱を無くしてしまいました。どうか占いで見つけ出してください」と頼んできた者があった。
 そこで康豊は「分かった。探してやるから、その代わり謝礼で半分の二十両を戴きたい。ついては案内人を一人寄越してくれ。山神水神を申し降すために行法に出る。後でそなたの家に行くので一族を集めて、供物の餅をついておくように」と指示し、案内人と共に山へ向かった。康豊は山で松葉を取ったりなどしていたが、やがて「行法の障りになるので、離れていてくれ」と、案内人を遠ざけ、川の深い所に行って礼拝して、まもなくして帰った。

【犯人はこの中にいる!】そして依頼人の家に行って、壇を飾って取って来た松葉を撒き散らして、餅を白い布の上に並べて、祈った後、家の者すべてを車座(人々が輪になって一人の人間を囲むこと)にさせ「四十両と検地帳を盗んだ者はこの中にいる。だが我が行法の定めで命だけは助ける。盗んだ者は白状しろ。しなければ山神水神の罰を受けるであろう。疑う者があるなら秘法を見せよう。壇上にある餅を下に下ろすとそれが盗んだ者の方へ動き出すぞ」と言うと、供えた餅を布と一緒に下に下ろした。
 すると康豊の行ったとおり、餅が動き出し、それに一同は驚き、ついに一人が盗んだことを白状した。そして餅を壇上に戻して供物はすべて川に流すように告げた。実は餅が動き出したのは、布の下に川から取って来た亀を隠していただけだった。

駿府城
駿府にある駿府城

【生き残った直系】事件が解決したお礼に村人は20両を康豊に渡そうとしたが、彼はなぜか10両を返した。村人が理由を聞くと「盗んだ者の命を10両で買い取った。残りの10両があれば旅先でも金に困ることはない」と答えた。これを聞いた村人達は神のごとく彼を崇めた。
 お金が手に入った康豊は村を去り、駿府の長光寺に落ち着き、母方の名字を使用して足立七左衛門と名乗った。ある日、駿府城主・酒井忠利が長光寺の周辺で鷹狩をしている時に、狂人が寺の客間に切り込んできた。この現場に居合わせた康豊は机を投げつけて取り押さえ手柄を得た。そこで忠利が康豊に由緒を聞いて、元親の息子ということを知り、家臣に取り立て200石を与えた。その後、酒井家が武蔵河越に移封になった時に500石となり、最終的に1500石の領主となった。亡くなった時期は不明である。

高知市長浜の天甫寺山にある父・長宗我部元親の墓
高知市長浜の天甫寺山にある父・長宗我部元親の墓

管理人・・・逃亡時の話は『古老噺』『落穂雑談一言集』に載っています。彼を主役にした小説『信九郎物語』もありますが、今回はそれを参考にはしてません。
 とっても機転の利く人ですね(詐欺といえばそれまでですが、、、)。みんなを集めて犯人を当てるなんて探偵小説みたい。推理はしていませんが。ちなみに康豊の子は5千石を賜る重臣となり宿老城代となっています。その息子さんは足立家の運を開いてくれたお礼として多賀明神に50石を寄付しています。以上、元親の息子で唯一普通の最後を終えた(と思われる)長宗我部康豊さんでした。

参考文献大日本史料(第十二編15〜20)、ほか

UPDATE 2002年8月27日
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