桑名一孝
生没年:1558〜1615年/ 身分:藤堂家の家臣/ 官位(通称、号):弥次兵衛

【長宗我部家の譜代】長宗我部家の重臣の家柄。桑名家は伊勢の平家の出で桑名にいたが、応仁年間に土佐に来て長宗我部氏に仕えたと伝えられている。父は藤蔵人。最初、吉成と名乗る。
【盛親のために】元親は1599年に亡くなる際に一孝を先手とするように遺言している。関ヶ原の戦いで長宗我部家が改易された時、一領具足(長宗我部家の下級武士)が浦戸一揆を起こすと、徳川家に捕われの主君・盛親の命が危ないと一揆を解散させようと画策する。一揆の総大将に選ばれた一孝だったが、土壇場で裏切り、一揆勢が混乱しているところを鎮圧し、山内家に城を明け渡している。

【再会】やがて伊勢の藤堂高虎に仕え二千石を与えられた。そこから得た収入の一部を旧主・盛親に回し生活を助けている。大坂の陣が始まると藤堂家の一部隊長として出陣。この時、盛親の家臣が訪れ、大坂に来るように誘ってきたが、「長宗我部家に受けた恩には、関ヶ原で命を捨てて戦うことで報いることが出来たと思う。だが、藤堂家には世話になりながらも何も報いていない。今回の戦では旧主の恩に報いたいとは思わない。浪人をしていたなら大坂に馳せ参じたであろうが、新主を見捨てては義とはいえまい」と、断っている。
夏の陣では八尾の戦いで皮肉にも盛親と遭遇。かつての同僚達に目の仇にされたのと、自殺に近い突撃をしたため戦死している。
一孝は日頃「二腰の帯剣を二腰とも使用するほどの働きをして死にたいものだ」と言っていたが、その言葉通りに八尾の戦いでは長宗我部家の家臣・近藤長兵衛と槍を合わせ、胸を突かれても刀でその柄を切り、脇差を投げつけたという。だが、結局は長兵衛に首を取られている。

管理人・・・なんという哀しい最後を終えた人なんでしょう。本当は盛親につきたかったけど、家臣が路頭に迷うので藤堂家に留まり、いくらでも部隊があったのに、偶然にも長宗我部隊と出会って戦うことが出来ないまま戦死してしまう。辛かったことでしょう。
司馬遼太郎の『戦雲の夢』では、一本気な土佐人として描かれています。八尾での出会いは涙を誘います。時間があったら一度読んでみてくださいませ。
参考文献:藤堂高虎家臣辞典・大坂の役・大日本史料(第十二編15〜20)・長宗我部元親のすべて、ほか
UPDATE 2001年8月30日
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