播磨安国寺(東渓山安国寺。足利義教の首塚)

●播磨安国寺(東渓山安国寺)
住所:兵庫県加東市新定851
駐車場:あり

 臨済宗妙心寺派。本尊は十一面観世音菩薩。暦応2(延元4,1339)年、足利尊氏と直義の兄弟が夢窓国師の勧めに従い国土安穏の祈願、ならびに戦没者の供養のため全ての国に安国寺を建立した。そのため播磨国にも七堂伽藍のある大寺院が建てられるが、延徳元(1489)年の火災により焼失している。
 嘉吉元(1441)年、播磨守護の赤松満祐は嘉吉の乱で将軍・足利義教を殺し首を足利家所縁の播磨安国寺まで運んで葬儀を行い首塚を建てたと伝わる。その後、京都の相国寺長老の瑞渓周鳳が播磨に下向して首を奉じて京都に戻ったという。
 播磨安国寺は延徳の焼失後に再建されたが、天正8(1580)年の羽柴秀吉の三木城攻めの兵火で焼失、近世にも焼失し、現在の本堂は明治29(1896)年に再建された。

(鐘楼)
鐘楼

(山門)
山門

(本堂と庭園)
本堂と庭園

本堂と庭園

(これは・・・なんでしょうか。私の乏しい知識だと風鐸や瓦など一緒にした芸術作品に見えます)
謎

(足利義教の首塚。塚の上に宝篋印塔が建っている。宝篋印塔は加東市指定文化財になっている)
足利義教の首塚

足利義教の首塚

足利義教の首塚

参考文献:兵庫県の地名Ⅱ、新修加東郡誌 本編、兵庫県史 第2巻 (中世編 1)、大日本史料 第8編之27、

感想:駐車場がとても広かった記憶があります。



又兵衛田(後藤又兵衛への扶持米を耕作した田圃)

●又兵衛田
住所:兵庫県姫路市山田町南山田25-1(字 池田)
駐車場:なし

 慶長11(1606)年、主君・黒田長政との折り合いが悪くなった後藤又兵衛は領地の筑前を退去し各地に移り住んだ後、故郷の播磨に戻った。そして又兵衛は姫路城主・池田輝政の扶持を受けたが、その時に米を耕作していたのが又兵衛田と呼ばれる圃場だと伝わる。
 長政が何度も輝政に苦情を申し入れていたため、慶長18(1613年)に輝政が死去し息子の利隆が跡を継ぐと扶持が停止される。1年後、又兵衛は大坂城に入り大坂の陣で戦死したのはあまりにも有名である。
 令和元(2019)年に当地で獲れた米を使って山田町と後藤又兵衛顕彰会が作った特別純米酒「山田の又兵衛」が販売されている。

(1月に行ったため田圃は稲も水もない状態だった)
又兵衛田

(近くの道路沿いに立つ後藤又兵衛関連史跡の案内板)
案内板

参考文献:毎日新聞「又兵衛の田から純米酒 「戦国感じて」PR 姫路・山田町地区 /兵庫」姫路市山田町ウェブサイト、大坂の陣 豊臣方人物事典、現地の案内板

感想:特別純米酒「山田の又兵衛」は山田町だから品種が山田錦(酒米として有名)かと思ったらキヌヒカリでした。当然、慶長年間にはキヌヒカリは無かったため別の品種が扶持されています。何だったのかまでは知りませんが。
 この田圃の周りだけ字が池田となっており、池田家時代に藩主直轄だったようです。もしかすると扶持米を耕作していたという伝承から字名が付けられたのかもしれませんが。



播磨 仁位山城(毛利軍が上月城攻めで利用した付城)

●播磨 仁位山城
住所:兵庫県佐用郡佐用町仁位
駐車場:東側の曲輪に駐車スペースあり
遺構:曲輪、畦状竪堀群、堀切、土橋、土塁
標高:231メートル/比高:41メートル

 天正5(1577)年、羽柴秀吉が毛利方の赤松氏(上月氏)が籠もる上月城を攻めた際に付城として築城したという説もあるが不明。天正6(1578)年、毛利軍が上月城に籠もる尼子再興軍を攻めた際に付城として利用した。毛利元就が出雲の月山富田城を包囲した際に本陣とした出雲勝山城と同じく周囲を畦状竪堀群で防御していることから可能性が高い。曲輪に関しては削平が甘い箇所が多く急造した感がある。

(佐用川の対岸から見た仁井山城。木が生えていない当時は畦状竪堀群が見えていたと思う)
佐用川の対岸から見た仁井山城

(向かって右が仁井山城で左が上月城)
右が仁井山城で左が上月城

(入口。ここも害獣対策のため自分で開閉するようになっている。道も整備されており車だと楽に山頂まで行ける。ちなみにこの辺りの字は出口や上ノ出口だが城と関係があるのだろうか)
入口

(曲輪P。ここに車が駐められる。場所は下の概略図を参照)
曲輪P

(曲輪群Ⅰ)
曲輪群Ⅰ

曲輪群Ⅰ

(曲輪Ⅱ。ここから上月城が見下ろせる。西の曲輪は削平がしっかりしてあった)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(Aの堀切と土橋)
Aの堀切と土橋

Aの堀切と土橋

Aの堀切と土橋

(曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

(北端の曲輪群Ⅳ)
曲輪群Ⅳ

曲輪群Ⅳ

(戻って曲輪Ⅴ。ここから先は削平が甘い箇所が多い)
曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

(B地点。小さな堀や曲輪があった)
B地点

B地点

B地点

(曲輪Ⅵ。便宜上、番号で分けているが境目が分からない)
曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

(曲輪ⅦとⅧ)
曲輪ⅦとⅧ

曲輪ⅦとⅧ

曲輪ⅦとⅧ

(堀切群C)
堀切群C

堀切群C

堀切群C

堀切群C

(曲輪Ⅸ)
曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

(曲輪Ⅸから見た羽柴秀吉の本陣・高倉山城。と言ってもどれか分からんかった。多分、向かって右だと思うが。仁井山城が上月城と高倉山城の連携を断つ位置にある)
高倉山城

(Dの曲輪と堀切)
Dの曲輪と堀切

Dの曲輪と堀切

Dの曲輪と堀切

(仁井山城の一番の見所の畦状竪堀群。写真はEの辺り)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(地点Fの周辺。横堀などがある)
地点F

地点F

地点F

(南側のG周辺にある畦状竪堀群。ここが一番分かりやすく、比較のためマネキンが立ててあった)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(畦状竪堀群を見た後、山道を下って上月駅にある売店でパンを買った。数キロ北に戻れば食堂などがあったが面倒だった)
山道

パン

参考文献:兵庫県の地名Ⅱ、兵庫史の研究:松岡秀夫傘寿記念論文集、中世播磨250の山城

感想:畦状竪堀群と上月城を見下ろす位置から勝山城など京羅木山城砦群を意識した感じがあり「月山富田城攻防戦の再現だ。今回こそ尼子再興を目指す奴らを滅ぼす」という毛利軍の強い意志を感じます。

(概略図。クリックすると別のタブが開きます)
概略図


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