高月院(松平氏墓所)

住所:愛知県豊田市松平町寒ヶ入44

 浄土宗。1367年、在原信重(松平家初代・親氏の義父)が創建。寂静寺という寺号だったが、応安年間(1368~1374年)に親氏が本堂や山門などを寄進し高月院と改め松平氏の菩提寺とした。江戸時代は徳川家の厚い庇護を受ける。現在の本堂や山門は1641年に徳川家光が建立したものである。

(総門)

(仏足石。釈迦の代理を意味し、そこで説法したことを示す)

(山門)

(本堂)

(松平氏墓所。写真は左から四代・親忠の夫人、親氏、二代・泰親の墓。親忠の第四子が当寺の住職を務めたため親忠夫人の墓があると推測されている)




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安芸広島城(毛利家・浅野家の居城)

住所:広島市中区基町21ー1

 戦国時代後期、安芸を支配していたのは中国地方の覇者・毛利一族である。毛利家の居城は安芸の真中に位置する吉田郡山城(広島県高田郡吉田町)だった。しかし山奥の郡山城では交通の便が悪く、海に近い場所に本城を移す必要性が出てきた。そこで1589年、毛利輝元は海に近い安芸の南部・五か村に城を築く事にする。
 当時の広島市南部は大田川河口のデルタ地帯で地盤がゆるく、人々からは「島に城を築くようなものだ」と嘲笑されたが、最新の土木技術、10年の歳月、現在の金額で一千億円(あくまで推定、ちなみに大坂城は推定七百八十一億円)もの巨額を投じて城を完成させている。
 「広島」という地名はこの時つけられたもので由来には様々な説があるが(二人の名前を合わせたなど)、個人的に一番妥当だと思う説が
「築城したのが三角州の中で一番広い島だったので『広島』と通称で呼ばれていたのが定着した」
 である。

(二の丸表御門)

 広島城は大坂城・聚楽第を参考に黒田如水を顧問に築城されたため、五重五階の天守閣、櫓の数八十八、総面積百三十万平方メートルという名古屋城や大坂城に匹敵する西国の雄に相応しい城を完成させている。
 総構は2~3メートルの土塁などがあり、全体をカバーできるほど兵力がいれば難攻不落だったと思われる。だが、関ヶ原の戦いの際はその広さが裏目に出て留守の者たちが
「広すぎて守りきれない。吉田郡山城ならこんなことはなかったのに」
 と不満をもらしている。水攻めに弱いと秀吉が言ったという話があるが、そういったことはすでに調査済みであったと思われるので後世の創作であろう。

(多聞櫓・太鼓櫓)

 築城からまもなく関ヶ原の役が勃発。毛利一族は西軍の主力として参戦するがまとまりにかけ、敗退。改易は免れるものの周防長門に転封させられている(この時、デルタ地帯に建てた萩城は広島城築城のノウハウが活かされたものだと言われる)。
 その後、広島に来たのが関ヶ原で東軍に勝利をもたらした福島正則。正則は徹底的な検地で安芸の石高を9万石も増やし、毛利時代には不完全だった城下町の整備にも力を入れる。危険視されていた一向宗の寺を城の近くの一ヶ所に集中させ監視の目が行き届くようにし、西国街道を城の南側に移動させるなどした。福島時代の広島城は修築のみで毛利時代からの大幅な改築などはなかった。

(濠と平櫓・多聞櫓・太鼓櫓)

 1619年、幕府は福島正則を改易する。理由は『幕府に無断で城の修築を行った』というものだった。信州川中島に転封させられた福島家に代わって広島城主となったのは紀伊から来た浅野長晟だ。浅野家は福島家よりもさらに厳しい検地や干拓事業の推進(今の広島市中区の半分はこの時に出来たもの)、それまで正方形に区切られていた城下町を長方形に変え土地を効率的に利用できるようにする。現在の広島市の基礎が出来たのはこの頃だ。
 何事もなく時が過ぎて行った広島藩だったが、1701年に大事件が起こる。分家の赤穂浅野家の当主・長矩が江戸城内で吉良義央に斬りかかり、そのために切腹・お家断絶となったのだ。本家の広島藩は累が及ぶのを避けるため、この出来事に終始距離を置いた。ただ事件が終わりほとぼりが冷めた後に家臣達を召抱えるなどの救済措置はしている。本家だっただけあって今も広島県内には赤穂浪士に関係するものが多数ある。

(東御門跡)

 太平の世になった広島城はもはや軍事的拠点ではなくシンボルとなったいた。そのため城内の雰囲気も緩んでおり、1781年の記録には、二の丸に鹿が1匹落ちていたという。その他にも庶民が城の奥に迷いこんだり、堀で釣りをする者がいた、土塁の内側の空き地で野菜を作る家臣など平和な時代ならではの出来事が起きている。

(天守閣)

 幕末、再び戦乱の世が訪れる。第一次・第二次長州征伐では広島城は最前線基地となり幕府軍を受け入れた(広島藩自体は長州征伐に反対しており、戦闘に直接参加する事はなかった)。倒幕の動きが盛んになると薩長について参戦する。

(天守閣から見た広島市)

 明治になると広島城に全国六鎮台の一つが置かれ、中四国を統括した。ここから終戦まで呉市を含めた広島県南西部が全国屈指の軍事拠点となるのである。
 1894年、日清戦争が始まると大本営が広島城に移され、それと共に天皇陛下が行幸され、帝国会議が招集された。日清戦争が終わるまでのわずかな間だったが広島市は帝都となった。

(広島大本営跡)

 1945年8月6日8時15分、広島市に世界初の原子爆弾が投下される。これにより市の中心部は壊滅し広島城も石垣を残して建物全てが破壊された。この時出た広島城の古材は資材不足の市民達が薪や建材にしたという。
 1958年4月1日、市民の要望で鉄筋コンクリートの天守閣が復元。戦後から13年目のことだった。市民の半数が亡くなり『70年間は草木も生えない』と言われていたほど悲惨な状況から復活した広島市。天守閣はまさにその復活の象徴と言えよう。

(天守閣その2)


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備後福山城(水野勝成、松平氏、安部氏の居城)

●備後福山城
住所:広島県福山市丸之内一丁目、二丁目
駐車場:有料駐車場あり

 元和5(1619)年、水野勝成が備後・備中の内10万石に移封され、新しい城地を定めて元和8(1622)年に完成した。譜代大名の水野氏が西国への鎮衛の役目も兼ねており築城に際して江戸幕府から多額の援助を受けている。しかし一国一城令が徹底していた時代だったため搦手の整備は行えず、背後の小丸山などを利用するしかなかった。備後の中心的な川である芦田川の水を取り込み濠や城下町の上水道として利用している。
 城主の水野氏は五代で無嗣断絶になってしまう。その後、松平氏が入るが一代で移封され、阿部氏が十代続き明治維新を迎えている。安部氏は四人老中を出すほどの名家だったが、特に有名なのはペリー来航時に活躍した阿部正弘である。
 鉄道敷設により二之丸・本丸の他は市街地と化すが、残った城は市民によって大事に保管される。しかし昭和20(1945)年8月8日の福山空襲で天守閣は全焼。昭和20(1966)年、福山市市制50周年記念事業として再建される。令和4(2022)年、400年を記念して大改修が行われた。

(ふくやま美術館方面から見た天守)
天守

天守

(リニューアル前の天守)

(北の石垣)
北の石垣

(広場の卵型の風船はライトアップの装置?)
風船

風船

(天守内部の福山城博物館。リニューアルされて展示の他に火縄銃ゲームや競馬など大人から子供まで楽しめる施設になっていた)
福山城博物館

福山城博物館

福山城博物館

(天守の最上階から城内や市街地を望む)
景色

景色

景色

景色

(天守の裏側(北側)の鉄板張りを再現したのが改修後の一番の見所らしい)
鉄板張り

(鏡櫓)
鏡櫓

(御湯殿)
御湯殿

(現存の鐘櫓)
鐘櫓

(伏見城から移築されたという現存の伏見櫓)
伏見櫓

(黄金水(井戸))
黄金水(井戸)

(旧内藤家長屋門。昭和51(1976)年、現在地に移築された)
旧内藤家長屋門

(東坂三階櫓跡と多聞櫓跡)
東坂三階櫓跡

(鹿角菜(ふのり)櫓跡。「ふのり」と読むのは鹿角菜(ろっかくさい)が海藻「ふのり(布海苔)」の漢名のため。ちなみに布海苔とは、紅藻類フノリ科の海藻の総称。海岸の岩礁に着生する。マフノリは数回叉状に分岐して中実、ハナフノリは羽状に密に分岐、フクロフノリは中空の円柱状でところどころがくびれる。煮汁を布地ののりづけに用いる)
鹿角菜(ふのり)櫓跡

(安部正弘之像)
安部正弘之像

(水野勝成之像)
水野勝成之像

(筋鉄御門付近から撮影した石垣と塀)
石垣と塀

(筋鉄御門)

(月見櫓)

月見櫓

(福山駅北口から見た福山城)

感想:歴史に興味のない同行者を待たせていたので、急いで城内を撮影しました。
 前の記事に追加したので順番がばらばらになっています。


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