●備後福山城
住所:広島県福山市丸之内一丁目、二丁目
駐車場:有料駐車場あり
元和5(1619)年、水野勝成が備後・備中の内10万石に移封され、新しい城地を定めて元和8(1622)年に完成した。譜代大名の水野氏が西国への鎮衛の役目も兼ねており築城に際して江戸幕府から多額の援助を受けている。しかし一国一城令が徹底していた時代だったため搦手の整備は行えず、背後の小丸山などを利用するしかなかった。備後の中心的な川である芦田川の水を取り込み濠や城下町の上水道として利用している。
城主の水野氏は五代で無嗣断絶になってしまう。その後、松平氏が入るが一代で移封され、阿部氏が十代続き明治維新を迎えている。安部氏は四人老中を出すほどの名家だったが、特に有名なのはペリー来航時に活躍した阿部正弘である。
鉄道敷設により二之丸・本丸の他は市街地と化すが、残った城は市民によって大事に保管される。しかし昭和20(1945)年8月8日の福山空襲で天守閣は全焼。昭和20(1966)年、福山市市制50周年記念事業として再建される。令和4(2022)年、400年を記念して大改修が行われた。
(天守内部の福山城博物館。リニューアルされて展示の他に火縄銃ゲームや競馬など大人から子供まで楽しめる施設になっていた)
(天守の裏側(北側)の鉄板張りを再現したのが改修後の一番の見所らしい)
(旧内藤家長屋門。昭和51(1976)年、現在地に移築された)
(鹿角菜(ふのり)櫓跡。「ふのり」と読むのは鹿角菜(ろっかくさい)が海藻「ふのり(布海苔)」の漢名のため。ちなみに布海苔とは、紅藻類フノリ科の海藻の総称。海岸の岩礁に着生する。マフノリは数回叉状に分岐して中実、ハナフノリは羽状に密に分岐、フクロフノリは中空の円柱状でところどころがくびれる。煮汁を布地ののりづけに用いる)
感想:歴史に興味のない同行者を待たせていたので、急いで城内を撮影しました。
前の記事に追加したので順番がばらばらになっています。