中国・九州史跡巡り2010(6日目後半:小早川隆景の墓・鞆城・河野通直の墓)

 いろいろ廻っていたらもうお昼になってしまった・・・。宮島、広いからね。途中、食事を済ますと友達の運転で三原市に移動。

49.米山寺・・・三原市沼田東町納所460。沼田小早川氏の手によって1235年に創建された。小早川家歴代の墓、小早川隆景の木像がある。
感想:山門が・・・かなり色あせている・・・。

(10年前、立て替えられたばかりの頃の山門)

(現在の山門)

(小早川氏歴代の墓。右端が隆景)


50.三原城・・・三原市館町1丁目。1567年、小早川隆景が築いた城で、瀬戸内海の島々の水軍との連絡を取りやすくするため、沼田河口に浮かぶ二つの島を利用して築かれた。満ち潮の時にはまるで海に浮かぶようだったので、別名『浮城』と呼ばれた。関ヶ原の戦いで、福島正則が芸備両国を与えられると三原城はその支城となる。その後、浅野家が領主として代わるが、三原はそのまま支城として明治維新を迎える。
感想:三度目なので特に・・・。

(石垣)

(天主台跡)

(小早川隆景の像)


51.鞆城・・・福山市鞆町後地536-1。毛利氏によって築かれた城。足利義昭が滞在したことで知られる。現在は鞆公園になっている。
感想:話には聞いていたが道が狭い!鞆の浦歴史民俗資料館の駐車場に駐めて歩くのが無難。
 鞆の浦は海援隊のいろは丸沈没の事故で坂本龍馬が一時滞在したことがあり、龍馬関係の史跡を目当てに来ている人が多かったように感じた。

(鞆公園全景)

(鞆公園から南側を望む)

52.山中鹿之助の首塚・・・福山市鞆町後地1199。1578年、討ち取られた山中鹿之助の首は安国寺恵瓊によって鞆に運ばれ足利義昭・毛利輝元・小早川隆景の首実検を受けた。その後、静観寺の門前にさらし首にされたが、静観寺住職が哀れに思い埋葬している。
感想:これで鹿之助関係の墓・供養塔は6つ目(島根県安来市・津和野町、鳥取市、岡山県高梁市に二つ)。京都にもあるらしいので、そこに行けば全部廻ったことになるのかな?

(首塚)

(静観寺)


 電車の時間が迫ってきたため、福山駅に行き友達とはお別れ。運転ありがとう! 私は引き続き史跡巡り。

53.長生寺・・・竹原市本町1-16-22。小早川隆景が伊予の大名だった河野通直の菩提を弔うために建立した寺。
感想:竹原市の古い街並みの中にあるため駐車場がなかった。

(河野通直の墓)

(墓から伊予方面を望む。隆景の配慮なのか墓は伊予方面を向いている)

(お寺近くの古い街並み)


54.安芸木村城・・・竹原市新庄町。竹原小早川氏の居城。小早川隆景が小早川家を相続した際、最初に入った城。
感想:車で走っていたら看板を偶然見つけたので撮影した。時間がなかったので城には行っていない。

55.竹原小早川氏墓地・・・竹原市東野町青田。竹原小早川氏歴代の墓。山崩れで埋没していた状態だったが、地元の方々が整備された。
感想:さらに上に隆景の養父・興景の墓があったらしいのだが、疲れていたため見に行くのを忘れた。


56.福成寺・・・東広島市西条町下三永3641。726年頃の創建と伝わっている。源平合戦の時に焼失したが、その後再建された。戦国時代には大内氏・毛利氏の庇護を受ける。1584年、土佐の長宗我部元親の圧迫を受けた河野通直が毛利輝元とここで会見し対策を話し合っている。
感想:近くの広島大学の天文台が目立ってお寺が霞んでいる・・・。


 本日はこれにて終了。東広島市のホテルに泊まった。

本日の感想:さすがに6日連続で史跡巡りをしたのでばてて来たかな? 明日はあまり予定を詰めていないのでゆっくり行こう。

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