福島正則

(ふくしままさのり)

生没年:1561〜1624年/ 身分:安芸広島50万石の大名/ 官位(通称、号):左衛門大夫

福島正則生誕地
愛知県美和町にある福島正則生誕地

【秀吉の縁者】幼名・市松。幼少期の詳細は不明。桶屋の息子で豊臣秀吉の叔父・福島新左衛門の養子に入ったとも、尾張海東郡花正庄二寺村で生まれ、母が豊臣秀吉の伯母だったとも言われている。
 その縁で正則も幼少より秀吉に仕える。1578年に秀吉に従い熊見川の戦いで首級を得て100石を与えられた。山崎の戦いで功を上げ、賤ケ岳の戦いでは七本槍として活躍し5千石を与えられる。小牧長久手の戦い、紀州征伐で功があり、四国征伐後の1585年に伊予今治10万石を与えられた。その後も九州征伐、小田原征伐での韮山城攻め、朝鮮出兵などで功を上げ、1595年には尾張清洲24万石を与えられる。

【広島の太守】1599年に徳川家康の養女を息子の正之と結婚させる。1600年の上杉征伐の最中に起きた石田三成の挙兵では、小山評定の際に前日の黒田長政の提案で真っ先に家康への支持を表明し、そこにいた諸将達の意見を誘導した。関ヶ原の戦いでは岐阜城攻めや、宇喜多秀家軍との戦いで活躍している。
 それらの功で安芸・備後合わせて50万石の大名となった。大坂の陣では動向を疑われ江戸に留め置かれた。この際に豊臣家が大坂にあった福島家の米を取り上げるのを黙認したと言われている。

広島城
正則が城主だった広島市中区基町にある広島城

【没落】1619年に広島城無断修築を咎められて領地を召し上げられて、津軽へ移封されることとなった。しかし津軽藩主の津軽信牧らの必死の運動で取りやめとなり、信濃川中島4万5千石(この内、2万5千石は越後国内)に移封される。
 1621年に息子の忠勝が亡くなると、傷心のため越後の領地を幕府に返して2万5千石だけを自分の領地とした。1624年7月13日死亡。法名・海福院殿前三品相公翁正卯大居士。京都市右京区花園の妙心寺に葬られる。また長野県上高井郡小布施町の岩松院に霊廟がある。

福島正則の霊廟
長野県上高井郡小布施町大字雁田615の岩松院にある正則の霊廟

管理人・・・正則ってなんかあまり頭が良くなくて徳川家に踊らされた挙句に自分も破滅したっていうイメージが強いんですが、実際はどんなもんだったんでしょうか?
 関ヶ原の戦いでも何も分からず、気がついたら徳川家の天下取りに手を貸した、ってことになってますが、分かっていながら、三成への憎しみが抑えきれずに気がついたらああなっちゃったって気もします。そんなに状況が見えない人とも思えないですし。
 以上、広島の基礎を築いた福島正則の紹介でした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版・広島県人名事典 芸備先哲伝・大坂の陣名将列伝、ほか

UPDATE 2004年12月8日
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