津軽信牧

(つがるのぶひら)

生没年:1586〜1631年/ 身分:陸奥弘前4万7千石の大名/ 官位(通称、号):越中守

津軽家墓所
高野山にある津軽家墓所

 津軽為信の三男。為信は元々南部家の家臣だったが対立し小田原征伐の際、豊臣秀吉への工作が成功し独立大名となった。信牧は1607年12月に長兄の信健が死亡したため家督を継ぐ。この時、津軽健広一派が信健の遺児・熊千代に家督を相続させようとしたためお家騒動が起き、彼らが幕府に訴え出たが1608年8月に却下され健広は追放された。
 家督を継いだ信牧は弘前城の築城と街作りや青森開港などで藩の礎を築く。大坂の陣が起こると出陣したものの北国の警備を命じられてそのまま帰国した。
 1619年に信濃川中島10万石へ移封される話が出たが、信牧や家臣、妻の満天姫、南光坊天海の運動により中止となる。1631年1月14日江戸で死亡。東京都台東区上野の津梁院に葬られた。

管理人・・・上記のようになんとか家督を継いだ信牧ですが、その後も高坂蔵人の反乱や領内の飢餓などがあり苦労しています。しかも信牧の後を継いだ信義も家臣団の対立などが続いて五代目の時にやっと安定したそうです。
 信牧は二代目と言われていますが、長兄・信健が家督を相続したことが確認されています。あとでお家騒動を隠し、信牧の相続を正当化するために信健の家督相続を無かったことにしたと推測されます。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜、ほか

UPDATE 2004年1月11日
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