南光坊天海

(なんこうぼうてんかい)

生没年:1536(?)〜1643年/ 身分:家康の側近/ 官位(通称、号):なし

【謎の多い半生】幼名・兵太郎。父は二本松畠山氏家臣の子孫・船木景光。母は葦名盛常の娘。陸奥国会津郡高田郷の出身で三浦氏の一族とも言われている。生まれた歳も1509年から1536年と様々である。11歳で僧になった天海は陸奥高田の龍興寺に入り弁誉舜幸の弟子となる。後に比叡山に行き修行するが1571年に織田信長の比叡山焼き討ちにあい、命からがら脱出している。その後は甲斐の武田信玄を頼って落ち延びた。1573年に葦名盛氏を要請で会津に行く。
 1588年に武蔵の喜多院の住職に、1590年には同じ武蔵の仙波中院の住職になっている。この頃に徳川家康と出会ったと言われている(関ヶ原頃という話しもある)。1607年に比叡山探題になる。南光坊と言われるのは、この時に天台宗の総本山・南光坊に移ったからだ。それと共に家康の側近となり政務を補佐する。家康の信頼は厚く『常に左右に侍りてその申処ことごとく挙用せられずという事なし』といわれるほどだった。

天海の銅像
栃木県日光市にある天海の銅像

【家康の参謀】1614年7月、豊臣家が方広寺の大仏殿を完成させる。これの落慶供養を豊臣家がしようとした時、徳川家はこれに難癖をつけた。『大仏供養の際、天台宗を上席にしない場合は欠席する』と天海が言いはじめたのだ。
 これで供養は一時中断。それから有名な方広寺銘文事件に発展し、大坂の陣が始まるのである。この大坂の陣での天海の活躍は分からないが、堀を埋めるなどの陰謀の手助けをしていたのは間違いないだろう。

【神号を決める】1616年4月1日、死の床にあった家康は天海・金地院崇伝本多正純の3人を呼び自分の遺体をどう扱うかについて遺言をした。4月17日に家康が亡くなると、彼の神号と葬儀のやり方について同じ僧で側近であった崇伝と議論し合う。天海は権現にすべきだと主張し、崇伝は明神だという自説を曲げない。ずっと話し合いが続いていたが天海の「明神は豊国大明神と繋がって不吉だ」という一言によって『東照大権現』の神号が決まった。この事件をきっかけに天海の力はさらに強くなった。
 家康死後も秀忠・家光の政治顧問として活躍し、特に家光からは絶大な信用を得た。1643年10月2日死去。1648年には慈眼大師号を与えられた。

天海の墓
滋賀県大津市坂本4−6−33にある天海の墓

管理人・・・この人と言えばまず思い付くのが、天海=明智光秀説ですね。これどうなんでしょうか。光秀かどうかはともかくとして天海は豊臣家滅亡にはかなり熱心だったみたいです。比叡山焼き討ちに参加した豊臣秀吉をどうしても許せなかったのでしょうか。
 かなり出来た人で、お咎めを受けた人達の罪をなんとか軽減するように嘆願し比叡山を再興し、家康の鷹狩の時間を近習の者が早起きしなくていいように遅めに変えた方がいいと助言しています。そのおかげで諸大名の尊敬を益々受けたそうです。
 これだけの人物なのに家康に会うまでのことがよく分かっていないのが不思議です。ですから明智光秀説がでるんでしょう。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版江戸幕閣人物100話・会津葦名時代人物事典、ほか

UPDATE 2001年9月14日
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