本多正純

(ほんだまさずみ)

生没年:1565〜1637年/ 身分:下野小山3万3千石の大名/ 官位(通称、号):上野介

方広寺の鐘の銘文
方広寺の鐘の銘文

【佐渡守の子】本多正信の嫡男。その才覚は幼い頃から知られていた。1583年、19歳の時に徳川家康に仕え、その才能を愛されている。
 1601年5月に従五位下上野介に任ぜられ、下野小山3万3千石の大名となる。1605年に徳川秀忠が将軍職を継ぎ、家康が大御所政治を取り始めると、その最高指導者となった。
 正純が特にその才能を発揮したのが、大坂の陣である。『方広寺鐘銘事件』を金地院崇伝と共に画策し、豊臣家の使者として片桐且元が駿府に来た時に応対し、彼に豊臣家が誠意を見せなければ、戦しかないとほのめかしている。その後、淀殿の使者として駿府に行っていた大蔵卿局らを丁重にもてなして、豊臣家上層部に且元を疑いの目で見るように仕向けたのも正純の策略と言われている。

長堀通
現在の長堀通

【埋め立て】1615年12月の徳川家と豊臣家の和議にも交渉役として活躍した。この時、豊臣側の交渉役・常高院に対して「和議をするのはいいが、大御所は海外にまで名を知られた人である。それが戦って何の戦果もなしでは名声を損じます。ついては外堀だけ埋めて、今度の出陣記念としたい」と、提案している。これは正純の仕掛けた罠だった。そうとも知らない豊臣家上層部はそれを了解し、和議が成立した。
 12月末から徳川軍は埋め立てを開始。ところが徳川軍は総構えどころか内堀などまで埋め立て始める。これに慌てた豊臣家は抗議をするが、徳川家の人間はまったく取り合わず、誰も彼もがとぼけるばかり。正純も抗議してきた阿玉の局に対して「あわれ美人なるかな、願わくば盃をたまわらん」などと言い、相手にしなかった。そのため結局、大坂城は丸裸になり、夏の陣を迎え、不利な野外戦をするほかなく、豊臣軍は敗北してしまうのである。

【釣り天井】1616年に家康がいなくなったため、駿府から江戸に行き、秀忠政権の一人となった。しかし幕閣は秀忠の側近だった土井利勝酒井忠世安藤重信らが占めており、正純はその中では浮いた存在となっている。
 1619年、宇都宮城主の奥平家昌が死亡。その子の忠昌が幼かったため、重要地ということで、下総古河へ転封となり、代わりに正純が15万石の大名として移封された。これに怒ったのが、家康の娘・亀姫である。彼女は忠昌の祖母にあたり、しかも本多正信・正純親子によって失脚させられた大久保忠隣の義理の母だったので、正純に対する憎しみは並々ならぬものがあったのだ。
 それが伏線となって起こる出来事が有名な『宇都宮釣り天井事件』である。1622年4月、秀忠が日光東照宮参拝を終えた後、泊まる予定だった宇都宮に寄らず、急に帰り道を変更して江戸に戻る。これは亀姫が「秀忠が宿泊予定の建物に釣り天井の仕掛けがあり、正純が暗殺を計画している」と、訴え出たためだった。

本多正純の墓
東京都南区麻布台2−3−22の一乗寺にある本多正純の墓

【悲惨な最期】1622年10月1日、最上義俊が改易され城受け取りに出羽山形に出張に行った所で、突然、老中の罷免と出羽由利への配流を言い渡される。理由は当然、4月の『釣り天井』の件である。この事件は後日、井上正就が調査したが、おかしなところは見当たらなかった。にも関わらず、幕閣から疎まれていたので、強引に配流させられたのだ。この時、正純は「身に覚えないことで由利の地は受け取れない」と拒否している。
 これが秀忠の怒りに触れ、出羽横手に1000石だけ与えられて、佐竹義隆預かりの身にされてしまった。当初、義隆から丁重な待遇を受けていたが、それが幕府に知れると、もっと厳しくするようにと義隆に言ってきた。そのため、義隆は仕方なく、正純の住居の四方を柵で囲み、戸障子を釘付けにして、罪人のような扱いをしている。正純はこの地で1637年に生涯を終えている。遺体は出羽横手の正平寺に葬られた。

管理人・・・家康からは抜群の信頼を得ていたようです。大坂の陣の時でも大活躍しており、鐘銘事件の時も文句を考えた清韓文英を詰問した時も弁解を軽くあしらい、陣所でもいろんな企みをしていたみたいです。
 父親の正信は「妬まれるから3万石以上を受け取るな」と、正純に言っていたそうですが、奢っていた正純はついつい宇都宮を受け取り、配流されています。家康と友達同然だった父親とは格が違っていたということでしょう。配流は、正純が豊臣家にやった言いがかりをつけたやり方が、そのまま自分に帰って来たって感じですね。

 秀忠や側近達は正純などが家康と相談して一方的に命令などを伝えてきていたので、かなり嫌われていたようです。だからあんなに強引なことをされたんでしょう。以上、引き際をわきまえないで、哀しい晩年を過ごした正純でした。
 ※略歴の中に老中とありますが、老中という制度が確立したのは1630年です。ただ便宜上、そう書きました。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版江戸幕閣人物100話徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜、ほか

UPDATE 2002年1月16日
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