金地院崇伝

(こんちいんすうでん)

生没年:1569〜1633年/ 身分:家康の側近/ 官位(通称、号):なし

南禅寺の三門
京都市左京区南禅寺福地町にある南禅寺の三門

【出世】足利氏の家臣・一色秀勝の第二子。1573年に足利幕府が滅亡し秀勝が没落したため南禅寺に引き取られ玄圃霊三の弟子となる。1594年に住職の資格を得て福厳寺・禅興寺に住している。この頃から以心崇伝を名乗るようになる。1605年2月には鎌倉五山の一つ・建長寺に、3月には古巣で臨済宗大覚派の本山・南禅寺の第270世の住職になり臨済宗の最高位についた。

【黒衣の宰相】1608年に徳川家康の命により駿府に赴き外交事務の担当をするようになる。1612年から京都所司代・板倉勝重と共に宗教行政を担当している。1613年には伴天連追放令を作成した。その後も禁中並公家諸法度や寺院法度、武家諸法度の作成に関わっている。

【豊臣家を滅亡に追い込む】1614年、崇伝は家康から「なんとか豊臣家と追い落とす方法がないか」と相談を受けた。そこで崇伝は「夏に方広寺の大仏開眼供養がありますが、その鐘銘に『国家安康』『君臣豊楽』という文があります。『国家安康』は家康公の名を引き裂いており『君臣豊楽』は豊臣家を主君として楽しむ、という意味にとれます」と助言。これで言いがかりをつけては、と提案したのだ。これにより『方広寺鐘銘事件』が起こり豊臣家を開戦に走らせたのは有名な話しである。

金地院崇伝の木像
京都市左京区南禅寺福地町の金地院にある崇伝の木像

【悪国師】1616年の家康死後、神号問題が起こる。崇伝は明神を主張し本多正純らの賛同を得るが、南光坊天海が「明神は豊国大明神と繋がって不吉」と反論したため権現に決まり敗北している。1619年に僧録司となり五山十刹以下の寺院の出世に関する権限を握り徳川秀忠によって増上寺の傍らに金地院を建ててもらっている。1626年には後水尾天皇から『円照本光国師』を授けられた。国師とは天皇の仏教上の師範のことである。1633年死亡。
 政治で辣腕を振るったので人気がなく、庶民は『大欲山気根院僣上寺悪国師』とあだ名し大徳寺の沢庵宗彭は『天魔外道』と評している。

管理人・・・崇伝について『徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜』の中で「早くから家康に仕え、三方ヶ原の戦いにも参加し、本営に迫る敵に対し自ら刀を振るって首級三つを上げた」と載っていたですが、この時、崇伝は数え歳で四歳(!)です。ただの間違いだとは思いますが・・・。

参考文献徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略江戸幕閣人物100話、ほか

UPDATE 2002年1月15日
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