板倉勝重

(いたくらかつしげ)

生没年:1545年〜1624年/ 身分:京都所司代/ 官位(通称、号):伊賀守

板倉勝重誕生地
岡崎市小美町地内にある板倉勝重誕生地

【思わぬ家督相続】徳川家康の家臣・板倉好重の次男。幼い頃に出家して玉庵和尚の弟子となり香誉宗哲と称し、永安寺の住職となった。
 1561年に父が亡くなると、板倉家は弟の定重が跡を継いだが、1581年の遠江高天神城攻めで戦死してしてしまう。そのため、家康の命で還俗して跡を継いだ(ちなみに兄の忠重は松平好景の家臣となっていたため家督を継げなかった)。1586年に駿府町奉行になり、1590年に徳川家が関東に移されると江戸町奉行・小田原地奉行・関東代官を兼任する。

【京都所司代】関ヶ原の戦いで徳川家が全国を掌握し、京都も支配化に入れると、京都町奉行となった。1601年9月からは加藤正次の跡を継いで京都所司代に就任。この人事は、本多正信が推薦したと言われている。
 京都所司代とはそれまでは京都の支配だけだったが、徳川家の任命するそれは、朝廷や公家の監察、畿内の天領の訴訟処理、さらには豊臣家や西国大名の監視という非常に重要な職だった。
 そのため、重職に見合う石高が必要ということで、千石しかなかった勝重は一挙に7千石の加増を受けた。就任した彼は何事にも公平な性格で難しい裁判を双方納得する形で決着をつけたり、僧の時に学んだ先例故実を生かして朝廷などの交渉をこなしている。

京都御所
天皇の住まいだった京都御所

【朝廷にメスを入れる】1609年7月、女官・公家の密通が発覚し、その中に天皇のお気に入りの女性がいたため大問題となった。この時、天皇は朝廷の風紀を取り締まるために幕府に処分を依頼した。その際、勝重が京都と関東を往復して、家康の指示を仰ぎ、また京都で問題の公家らを取り調べ、最終的に関係者を流罪にしている。
 この事件で幕府が朝廷の問題に介入できる先例が出来、今後に非常に意味を持つものとなった。この功で1614年に1万石の加増があり、1万6千石の大名になっている。

【大坂の陣の功労者】勝重は大坂の陣でも活躍している。きっかけとなる方広寺の造営の工事監督を務め綿密な報告を家康にし、鐘銘問題では金地院崇伝らと共に裏でことを進め、大坂の陣が始まってからも大坂城五人衆の入城など大事な情報を素早く家康に伝えている。そして豊臣家贔屓だった朝廷の動きを封じこめ、政治の世界からも徳川軍を援護している。

【公家諸法度】大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、幕府は課題の一つだった朝廷の締め付けに着手。7月30日に禁中並公家諸法度を公布し、天皇や公家の行動などに大幅な制限をした。これに対して朝廷側はかなりの不満を持ったが、伝える役目だった勝重は有無を言わせなかった。
 それから勝重は1620年まで所司代を務めた後、京都堀川に隠居した。勝重の跡は長男の板倉重宗が継いでいる。1623年には従四位侍従に進んだ。1624年4月29日死亡。三河長円寺に葬られる。

勝重の廟所
西尾市貝吹町入の長円寺にある勝重の廟所

管理人・・・戦闘などは行っていないので地味ですが、大坂の陣を語る上では欠かせない人物の一人だと思います。無欲公正な人で『徳川実記』には「勝重の裁判を受けた者は、訴えに負けても、自分の罪を悔いた」と、書かれています。

 勝重の裁判に関してはこんな話しがあります。京都で力があり板倉家にも出入りしていた商人が、隣の家の敷地を勝手に使っていました。これに怒った隣の家の人が裁判を起こします。この時、商人は瓜を持って勝重を訪ね、境界線のことをよく検討していただきたい、と頼んだところ、勝重は「分かった」と言い、瓜を受け取りました。
 しかし裁判の結果は「商人が勝手に敷地を使っているのは明らかである。直ちに返却するよう」と言い渡したそうです。これって美談ですけど、商人にしてみれば「じゃあ、瓜を受け取るなよ。瓜返せ〜」ってなところではないでしょうか。以上、難しい時期の京都所司代の仕事を見事にこなした板倉勝重さんでした。

参考文献徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜江戸幕閣人物100話戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年1月22日
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