本多正信

(ほんだまさのぶ)

生没年:1538〜1616年/ 身分:相模玉縄2万2千石の大名/ 官位(通称、号):佐渡守

鳩ヶ窟
三河一向一揆で家康が追い詰められて逃げこんだ愛知県岡崎市舞木町宮下8の山中八幡宮内にある鳩ヶ窟

【信仰】本多俊正の子。幼名・弥八郎。幼少より徳川家康に仕えたが、鷹匠という身分の低いものだった。生活も苦しく、大久保忠世らから塩・味噌・薪などを恵んでもらっていたという。貧乏のせいか次第に一向宗へ傾斜し、1563年の三河一向一揆に参加して徳川家と争った。この一揆は徳川譜代の家臣達も一揆側に回り、三河を二分するほど大規模なものだったが、1564年2月に家康はなんとかこれを鎮圧している。
 だが、信仰を捨てられない正信は徳川家に戻らず、大和の戦国大名・松永久秀に仕えた。久秀は正信を非常に高く買い「剛に非ず、柔に非ず、非常の器」と評し、重用した。しかし1565年に久秀や三好政康ら三好三人衆が将軍・足利義輝を殺害すると、正信は大和を去り、加賀に行き一向一揆の部将となっている。

【古巣に戻る】1569年に大久保忠世の取り成しで帰参(1565年頃や1582年頃という説もある)。1570年の姉川の戦いにも参加したが、敵陣に深入りしすぎて味方に助けられている。
 1582年に本能寺の変が起こって、徳川家がどさくさに紛れて信濃・甲斐を奪い取ると、甲斐奉行に任ぜられた。1584年の小牧長久手の戦いでは、家康の側近として従軍し、1586年には従五位下佐渡守に任ぜられた。
 1590年に徳川家が関東に転封となると、青山忠成らと共に、関東総奉行に任ぜられる。ここで正信は才能を発揮し、街造りなどで活躍した。特に目立ったのが、江戸市街地の造成工事である。江戸湾から江戸城へ米を運ぶための堀を造る工事では、雨の日も風の日も休まず朝4時から現場に行って指揮を取り、家康からの信頼をますます高めた。

江戸城
東京都千代田区千代田にある江戸城

【家康の友】関ヶ原の戦い後、家康は正信らに諸大名の功績などを調査させた。徳川家はこの結果を元に大規模な大名の入れ替えを行っている。この頃から徳川四天王など武功派が段々中央から遠ざかり、正信や息子の本多正純板倉勝重などの行政業務に長けた人物が重用されるようになってきた。
 1605年に徳川秀忠が将軍となり、家康が駿府で大御所政治を取るようになると、江戸で秀忠の側近となる。家康の決定を将軍に実行させるための役割を担うためだ。1612年には秀忠の信頼が厚かった大久保忠隣を追い落とし、江戸政権の中での権力を絶大なものにした。1614年に大坂の陣が始まると従軍し、正純らを裏で指示して豊臣家を滅亡に追いこんでいる。1616年6月7日、家康の後を追うようにして亡くなっている。

管理人・・・陰謀家で陰湿な印象の多い正信ですが、性格は意外と清潔で、妬まれるからと高禄を受け取らず、賄賂も受けなかったとか。正義感があり自分にも他人にも厳しかったから人から良く思われなかったんでしょう。
 石田三成と役割も性格も非常によく似てます。特に武功派からは嫌われていたようで、榊原康政からは『腸の腐れ者』、本多忠勝からは同族でありながら『佐渡の腰抜け』と、呼ばれています。これは関ヶ原の戦い後、時代が武功派を必要としなくなり中央から遠ざけられた恨みを一身に受けていたためと言われています。以上、息子の正純との連携で初期徳川幕府を支えた本多正信さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜江戸幕閣人物100話

UPDATE 2002年1月18日
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