三好政康

(みよしまさやす)

生没年:1528〜1615年/ 身分:豊臣家の部将/ 官位(通称、号):下野守・清海入道

東大寺
久秀と戦った場所・東大寺

【三好三人衆】近畿を支配する細川氏の家臣で攝津榎並城主・三好政長の息子(一説には三好頼澄の息子)。一族の三好長慶が近畿を支配すると、山城木津城主として長慶に仕える。1562年には畠山高政を河内で破った。1564年に長慶が死亡し義継が跡を継ぐと、三好三人衆の一人として三好本家を補佐する。

【信長に敗北】1565年には松永久秀と共に、言うことを聞かない十三代将軍・足利義輝を殺害している。しかしその後、義継を拉致し意のままにしようとして、久秀と対立。この戦いで東大寺の大仏が焼けてしまうという事態を引き起こしている。1566年7月に足利義栄を擁し上洛するが、今度は義継が久秀と組んで歯向かってきたので奈良で戦いに及んでいる。
 1568年に織田信長が義輝の弟・足利義昭を擁し上洛してくると三好三人衆は抵抗したが敗北。政康は阿波に逃亡した。その後、京都から岐阜に帰る途中の信長を襲ったり、義昭のいる本圀寺を囲んだりしているが、信長の逆襲に合い失敗し再び逃亡している。

三好一族の墓
堺市南旅篭町東3−1−2の南宗寺にある三好一族の墓

【出家】後に豊臣秀吉・秀頼に仕え、出家し清海入道を名乗っている。大坂の両陣に出陣するが、1615年5月7日の天王寺・岡山での最終決戦で討死。
 余談だが真田十勇士の一人・三好清海入道のモデルはこの政康である。十勇士での政康は、信長に追い払われた後、近畿で夜盗として暴れていたが、猿飛佐助と出会ってその縁で九度山の真田幸村と出会い、器の大きさに感動して家臣となった、、、となっている。もちろん作り話である。

管理人・・・たぶん、この人が豊臣軍では最高齢でしょう。当時の人は永禄・元亀時代の亡霊って感じで見てたんでしょうね。一時は京を制覇していたのに末路は悲しいものです、、、TT

参考文献戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2001年8月21日
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