板倉重宗

(いたくらしげむね)

生没年:1586年〜1656年/ 身分:家康の近侍/ 官位(通称、号):周防守

【重職を継ぐ】板倉勝重の長男。幼少の頃から徳川家康に仕え、永井尚政・井上元就と共に家康近侍の三臣と言われた。1600年の関ヶ原の戦いに従軍。大坂冬の陣では摂津茨木に使者として赴き、夏の陣では御書院番頭を務めた。1619年に父の跡を継いで京都所司代となる。

京都御所
天皇の住まいだった京都御所

【入内】1620年6月、徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内(中宮、皇后、または女御になる人が、礼式を整えてはじめて内裏にはいること)した時、大理職(京中の警察庁長官)となった重宗は入内行列の中を前後の間を開けてただ一騎で進んだと言われている。しかもこの入内の時に幕府は女御殿の警備と称して多数の兵を送り込み、これを重宗に統括させ朝廷・公家を管理させた。

【朝廷を無視】1629年10月、将軍・徳川家光の乳母が伊勢神宮に詣でたついでに上洛し天皇に謁見したいと申し出た。普通は無位無官の女性が謁見など出来るわけがなかったが、重宗が強引な朝廷工作でそれを実現させ、天皇から賜杯を受けさせた上に春日局という号まで与えさせている。

重宗の墓
西尾市貝吹町入の長円寺にある重宗の墓

【譲位】1629年11月8日、後水尾天皇は突然、公家を集めて譲位を宣言した。これは今まで幕府に抑え付けられてきた天皇のせめてもの抵抗だったと言われている。これにより京都所司代の重宗の面目は丸つぶれになってしまったが、秀忠の孫・明正天皇が即位したので、取り合えず立場は守られた。
 1637年の島原の乱では大坂城代の阿部正次と共に一揆の鎮圧に尽力する。1654年に所司代を辞職するが後任の補佐をし、1656年12月1日死亡。

管理人・・・名将・板倉勝重の息子さんです。父親譲りの才覚で京都所司代を立派にこなしています。弟さんの方が賢くて期待されていたようですが、彼も公平に物事を判断し、世間では評価が高かったようです。弟さんみたいに悲惨な最期を遂げずに無事に生涯を終えています。

参考文献江戸幕閣人物100話戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2002年8月13日
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