阿部正次

(あべまさつぐ)

生没年:1569〜1647年/ 身分:下野鹿沼1万5千石の大名/ 官位(通称、号):備中守

小田原城
正次が城主だった小田原城

【譜代の嫡男】阿部正勝の嫡男。1590年に徳川家が関東に移封されると徳川家康の近侍となり、1600年4月に正勝の跡を継いで武蔵鳩谷5千石を領し御書院番頭となった。同年11月に備中守の官位と5千石の加増をされる。1610年に下野鹿沼1万5千石に移封された。

【出世】大坂の陣では徳川秀忠に従い1615年の正月には使者を勤める。1616年に7千石を加増され奏者番となり、1618年にはさらに8千石を加増され上総大多喜に移封された。1619年に2万石を加増され相模小田原に移封され、1623年には5千石を加増されて武蔵岩槻に移封される。1625年に1千石を加増され5万6千石の朱印状を与えられた。

【島原の乱を乗り切る】1626年に3万石を加増され合計8万6千石の大名となり大坂城代となる。島原の乱が起きると板倉重宗とともに九州の諸大名に出撃命令を出した。1647年11月14日大坂城で死亡。法名・英隆院殿豪翁覚了大居士。岩槻市の浄国寺に葬られる。

大坂城
正次が城代となった大坂城

管理人・・・加増と転封を繰り返しているので書いてても何がなんだかよく分かりません。とにかく順調に出世したってことでしょうね。ここまで加増されたのは家康の信用があった正次を家光が買っていたためというのもあったそうです。
 正次は島原の乱が起こった時に本当は江戸の指示を仰がないといけないにも関わらず、時間がないと判断して重宗と一緒に独断で諸大名に命令を出しています。しかし諸大名は武家諸法度を守って動きませんでした。徳川家光は法度を守った諸大名を賞し、また正次らの判断も妥当だとお咎めはなかったそうです。
 以上、幕閣の一人として、また西国の押さえとして大坂城代となり幕府を支えた阿部正次さんでした。

参考文献江戸幕閣人物100話三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2004年4月9日
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