市橋長勝

(いちはしながかつ)

生没年:1557年〜1620年/ 身分:伯耆八橋2万3千石の大名/ 官位(通称、号):下総守

八橋城
長勝が城主だった鳥取県琴浦町八橋にある八橋城

【美濃の小大名】美濃の豪族・市橋長利の子。最初、織田信長に仕えていたが、信長没後は豊臣秀吉の家臣となった。1584年に美濃福塚で2千石、1589年に同じ美濃国内の今尾で1万石を賜わる。九州征伐・小田原征伐に参陣し、朝鮮出兵では肥前名護屋に在陣した。

【伯耆へ】秀吉が亡くなると、徳川家康に接近し、会津征伐に参加。そこで石田三成の挙兵を知ると、上方に向かいかつての居城だった福塚城に篭もる丸毛兼利を落とし、伊勢桑名城と美濃大垣城を道を遮断している。
 その戦功で関ヶ原の戦い後は1万石の加増を受けている。1610年に伯耆米子の中村一忠が改易されると、伯耆八橋へ移封され河内星田と合わせて2万3千石を領した。

星田陣営跡
長勝が守備した交野市星田3丁目にある星田陣営跡

【家康の信用を勝ち取る】大坂冬の陣が起こると、1700の兵を率いて参陣。天満川の深さを測りその標識を大坂城の堀際に立てて褒められている。夏の陣では領地の星田村が家康の宿営地になると見越し豊臣軍の攻撃から守り、家康の到着を待った。
 1616年に家康が亡くなる直前、松倉重政・堀直寄らと共に御前に召し出され、譜代と共に徳川秀忠に仕えるように、と言われている。同じ年、大坂の陣の戦功で越後三条4万3千石に移封されている。1620年3月17日死亡。

管理人・・・上手く世の中を渡っていますね。先見の明があるというか。家康に譜代同然に扱われたんですから、よっぽど気が利いたんでしょう。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜大坂の役、ほか

UPDATE 2002年2月22日
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