酒井忠世

(さかいただよ)

生没年:1572〜1638年/ 身分:上野善養寺1万5千石の大名/ 官位(通称、号):雅楽頭

酒井忠世の墓
群馬県前橋市の竜海院にある酒井忠世の墓

【譜代中の譜代】酒井重忠の息子。三河の西尾で生まれた。成長すると徳川家康に仕え、1588年に後陽成天皇の行幸に従い、この時に従五位下・右兵衛大夫に叙せられる。1590年に徳川家が関東に移封されると、家康から徳川秀忠に付けられ、父の領地・武蔵川越1万石の内、5千石を与えられた。
 1600年の関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、信濃上田城攻めに参加する。1601年にその功で上野那波郡で1万石を与えられた。その後、秀忠の上洛に従うなど徳川家のために尽くし、1609年に5千石を加増される。大坂の陣に従軍し、天王寺・岡山での最終決戦大野治房軍に対して苦戦させられている。

前橋城址の碑
群馬県前橋市大手町1にある忠世が城主だった前橋城址の碑

【幕府を支える】1616年の加増と1617年の父の遺領を継いだのを合わせて上野厩橋8万5千石の大名となり、さらに1622年にも加増され12万石もの大領を与えられた。その後、老中として土井利勝とともに幕府を支えた。
 しかし家光が上京中に江戸で火事が起きた時に責任を感じて寛永寺に篭ったが、その行動が徳川家光から「城を捨てて逃げるとは」と怒りを買い出仕を止められてしまう。その後、許されて老中に戻ったものの、それまでの勢いはなく、失意のまま1638年3月19日に死亡した。群馬県前橋市の竜海院に葬られた。

管理人・・・老中となった忠世でしたが、知恵者の利勝にはかなわず徐々に中枢から遠ざけられていったそうです。ただ領地の厩橋では新田開発、治安の維持、商業の発展などに力を尽くし有能な領主として活躍しています。
 以上、江戸時代初期の大名として有名な酒井忠世さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜江戸幕閣人物100話

UPDATE 2004年6月15日
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