大野治房

(おおのはるふさ)

生没年:?〜1615?年/ 身分:豊臣家の家臣(5千石の領主)/ 官位(通称、号):主馬助

本町橋
現在の本町橋(大阪市中央区)

【兄との不和】父は佐渡守。母は淀殿の乳母・大蔵卿局。兄は大野治長。幼少から豊臣秀頼に仕えて5千石(1300石とも)を与えられた。大坂冬の陣が起こると二の丸と三の丸の一部と共に船場の砦を守備した。
 1614年11月末、豊臣軍は木津川口の戦い鴫野の戦い今福の戦い博労淵の戦いなどで次々と砦を落とされ残るのは船場と天満だけとなった。そこで豊臣家上層部は砦の放棄を決めたが治房は「一戦もしていないのに撤退はできない。許しがないのなら捨て殺しにしてくれ」と断った。困った治長は軍議を行うからと再三使者を送り治房を大坂城に呼びつけ、その間に砦の近くの町に火をつけ兵達を無理やり撤退させる。この後に蜂須賀至鎮軍が砦跡を陣取り治房隊の旗を拾って嘲笑したため治房は治長を深く恨んだという。

大阪城桜門
大阪城桜門

【汚名返上】その汚名返上のために治房は徳川軍への攻撃を計画する。秀頼に許可をもらい後藤基次の賛同を得ると、12月15日夜、塙直之長岡興季御宿政友らを集めて軍議を開いた。そこで夜襲が決まり翌々日の17日の深夜、屈辱を与えた蜂須賀軍に本町橋から攻撃をし見事成功させた(本町橋の夜襲戦)。

【疑惑】明けて1615年、和議によって大坂城の堀は埋められ裸城になると元々和議には反対だった治房は浪人達を再び募集して兵の増強を図った。そのため和議の継続を願う治長とはますます仲が険悪となっていた。
 徳川軍との再戦が近づいた4月9日、大坂城の桜門の外で治長が刺客に斬りかかられた。幸い彼の部下が刺客を切り捨てたので怪我だけですんだが、その刺客が治房の部下・成田勘兵衛の家臣と分かり、勘兵衛が尋問されることになる。しかし勘兵衛が屋敷に火を放って自殺してしまったため真相は分からなくなったが治房への疑惑が残った。

大和郡山城
大和郡山城

【大活躍】大坂夏の陣が始まると野戦の指揮を取り、徳川軍の出鼻を挫くために大和方面に出撃するが大した戦果もなく撤退した(大和郡山の戦い)。その後、和歌山の浅野長晟を討つために岸和田経由で泉南方面に出撃するが、そこでも先鋒の暴走などが重なり敗北してしまう(樫井の戦い)。
 5月6日の天王寺・岡山での最終決戦で岡山口の総司令官となり徳川秀忠軍を追い詰めるが結局は戦力の差で撤退することになってしまう。治房は敗残兵をまとめて無事に兵を大坂城まで戻したものの本丸が炎に包まれ打つ手がなかった。そこで治房は玉造口から脱出して逃亡した。

【生き残る】その後の治房はいろんな説があってはっきりしない。『城に飛び入って焼死した(『山本豊久私記』)』、『京都で捕らえられて首を刎ねられる(『土屋知貞私記』)』、『生け捕られて板倉勝重から切腹を申し付けられる(『土屋知貞私記』)』などあるが行方不明になったという説が一番有力である。なぜなら1649年2月に治房が生きているという噂が広まり幕府がその真偽を確かめるために大規模な探索を行ったからだ。処刑された人間をわざわざ探索するはずもない。

岡山口周辺
現在の岡山口周辺

管理人・・・あまり評判のよろしくない治房ですが、岡山口での戦いでは外国の宣教師が「将軍の隊を四回も撃破し将軍が退却しようとしたが部下に引き止められた」と言ったほどの活躍をし、また夏の陣の直前には家康から「治房が天下を望むという噂があるが無理とはいえない。天下を取る者には生来の天分というものがある。上杉謙信・武田信玄は武辺に優れていたがそれだけでは天下を取れなかった。自分には幸い天下が転がり込んでいたから取れただけだ。治房の望みも馬鹿にはできない(『本多藤四郎覚書』)」と言わせたほどですから、なかなかの人物だったんでしょう。
 樫井の戦いの時に彼が願泉寺で饗応を受け足止めをくって敗戦に導いたという説ですが、これは願泉寺が言い訳のためにそう述べただけの虚説という話しもあります。
 以上、豊臣軍の最高司令官の一人、大野治房さんでした。

参考文献:大阪城の七将星・戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略ほか

UPDATE 2004年4月11日
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