鴫野の戦い

(しぎののたたかい)

徳川軍上杉景勝堀尾忠晴丹羽長重榊原康勝軍(6300)
豊臣軍大野治長渡辺糺竹田永翁・井上頼次隊など(不明)
戦  場:摂津国鴫野村

【上杉軍、来襲】鴫野は大坂城の東にある水田地帯で、堤以外は人馬が行動しづらいという地形だった。豊臣軍は東からの攻撃に備えて、堤(鴫野堤)に三重の柵を設け、守備隊2000を置いた。便宜上、敵にもっとも近い柵を第一柵といい、大坂城に近づくごとに第二・第三柵と呼ぶことにする。
 この鴫野方面に向かったのが、上杉景勝軍である。23日に長旅を終えて河内に到着した上杉軍5000は、休む暇もなく25日に鴫野に移動させられた。その南には堀尾忠晴軍800と丹羽長重軍200が陣取り、上杉軍の後方支援を受け持った。そこで徳川家康から「明朝に鴫野方面に向かう佐竹義宣と同時に攻撃を開始し、豊臣軍を撃退せよ」という命令が下る。
 11月26日未明、徳川秀忠軍本陣から軍目付として来ていた安藤正次・屋代秀正・伊藤政世は、上杉軍に黙って第一柵に向かって槍隊を率いて攻撃を開始。豊臣軍の守備隊は討って出て鉄砲で反撃したが近すぎて当たらず柵の中に逃げ込んだ。そこに上杉軍が到着し、一緒に攻めたので守備隊は退却し、隊の指揮官・井上頼次は討死してしまう。上杉軍は鴫野堤を占拠し銃撃隊を配備した。

鴫野今福の戦い合戦図、徳川軍攻勢時
鴫野今福の戦い合戦図、徳川軍攻勢時

【激突】上杉軍の第一隊・須田長義は余勢を駆って今福の戦いで佐竹義宣を攻めていた木村重成軍を対岸から射撃をしていたが、後藤基次が木村軍の兵を励まし反撃をしてきたため浮き足だった。そこに大坂城から七手組頭・大野治長渡辺糺竹田永翁・木村宗明ら(兵数不明)が鴫野方面に駆け付け、上杉軍に猛攻撃をしかけたので第一柵にまで撤退させられた。
 しかも豊臣軍が勢いに乗って追撃してきたので、上杉軍は多数の死者を出し追い込まれた。第二隊・安田能元が敵の勢いを止めるために交代したがこれも敗退。しかし水原親憲が至近距離から500挺の鉄砲で一斉射撃し黒金泰忠も援護射撃に加わり安田能元の部隊400が突撃すると、豊臣軍は勢いを削がれ敗退し始めた。上杉軍はこれを逃さず追撃し、数百人を討ち取り豊臣軍を大坂城まで追い返した。それにより鴫野の戦いは一応終了した。

旧大和川
寝屋川(旧大和川)

【今福へ】しかしここで上杉軍は佐竹軍から今福方面で苦戦しているから援護して欲しいと言う伝言を受け取る。上杉軍は堀尾・丹羽・榊原軍と共に救援に向かい、その方面の豊臣軍も追い返している。
 上杉軍は鴫野を占拠したが、家康と秀忠は疲れているだろうから堀尾軍と交代するようにと命じた。しかし景勝は「戦って手に入れた地を他人に譲ることは出来ない」と頑として譲らなかった。その後にも大坂の城兵と上杉軍が交戦していた時に、丹羽長重が「協力して敵にあたりましょう」と提案したが、それも「家法で陣地に入れられない」と言い拒否している。
 それからも徳川軍と豊臣軍は小競り合いを繰り返したが、豊臣軍が鴫野を奪い返すことは出来なかった。

鴫野今福の戦い合戦図、豊臣軍攻勢時
鴫野今福の戦い合戦図、豊臣軍攻勢時

管理人・・・これと今福の戦いってずっと堤の上で戦っているんですが、イマイチそんな気がしないですよね。大坂の陣関連の書籍でもそうは書いてあありますが、合戦マップはいかにも平野で戦っているみたいになってるので。ちなみに合戦図の柵の位置は適当です。
 軍目付が勝手に攻撃を開始したのは、敵が攻撃してきたためやむなく応戦しただけのようです。
 以上、大激戦の鴫野の戦いでした。良かったら次の今福の戦いも見てください。セットみたいなものですから。

鴫野の戦いの碑
城東小学校にある鴫野の戦いの碑

UPDATE 2002年2月10日
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