佐竹義宣

(さたけよしのぶ)

生没年:1570〜1633年/ 身分:出羽久保田20万石の大名/ 官位(通称、号):右京大夫

常陸太田城
義宣が城主だった茨城県常陸太田市中城町にある常陸太田城(舞鶴城)

【源氏の名門】常陸の戦国大名・佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。佐竹家は源義光を先祖とする名門。1589年に父から家督を譲られるが、その頃は佐竹家は北の伊達政宗と南の北条氏政の挟撃に合い辛い状況だった。しかし1590年に豊臣秀吉の小田原征伐に参加してその傘下に入ったので危機を脱する。
 その後、北条氏と結んで対抗していた江戸重通の水戸城を奪い、常陸南方三十三館の領主達を太田城に招いて騙し討ちにして常陸を平定した。1591年には九戸政実の反乱鎮圧に向かい、朝鮮出兵では肥前名護屋城に在陣する。

【三成への義理】1599年に親しかった石田三成が加藤清正らに襲われると自ら大坂に出向いて護衛し助けている。関ヶ原の戦いでは三成側について上杉景勝らと徳川軍を攻撃しようとしたが、徳川家康と親しかった義重の反対にあい佐竹氏は日和見的な立場を取った。そのため1602年に出羽の秋田20万石に減封される。1603年に久保田に築城を開始し現在の秋田市の基礎を築いた。

【今福の戦い】大坂冬の陣が起こると従軍し、上杉軍と共に豊臣軍の砦を攻略するように命じられる。この今福の戦いでは最初は勝利していたものの豊臣軍の逆襲にあい自らも戦死しそうなほど苦戦し、上杉軍らの助けを得て何とか追い返している。1633年1月25日死亡。

佐竹家墓所
高野山にある佐竹家墓所

【義宣の人となり】義宣は戦国の雰囲気を残した武将で、兜は黒い顔を隠したものを使い(肖像画で有名なもの)、顔をじっくり見た家臣は少なく、3つの寝室に紙帳(紙で作った蚊帳)を張ってどこに寝ているのか分からなくし、部屋から出るときは薙刀の先で金具を外すなど用心した。また茶や剣も一流の人物から学び文武両道の名将だったと伝えられている。

管理人・・・義宣は非常に義理堅い武将で三成には度々世話になっていたので(1597年に改易されかかった時に助けてもらっています)、必死になって助けています。
 水戸から秋田に行く際、美人を根こそぎ持っていったという有名な話があります。以上、秋田の基礎を築いた佐竹義宣さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版大坂の役戦国大名諸家譜・秋田人名大事典

UPDATE 2003年11月19日
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