伊達政宗

(だてまさむね)

生没年:1567〜1636年/ 身分:陸奥仙台62万石の大名/ 官位(通称、号):陸奥守

【遅れて来た男】出羽米沢城主・伊達輝宗の長男。母は出羽山形城主・最上義光の妹。幼名・梵天丸。5歳のときに疱瘡(天然痘の別称。伝染病で高熱を発し、あばたなどの後遺症を残す)にかかり、右目を失明してしまう。11歳の時に元服する。1584年、18歳の時に家督を譲られる。この家督相続の祝賀に安達郡の大内定綱が政宗に仕えたという約束を反故にしたので大内領に攻め込んだ。ここで撫で斬りをし、周辺領主を恐怖させる。

【激戦】1585年、会津の芦名家と常陸の佐竹家が、政宗が攻めていた畠山氏を救援するために北上し、両者は人取橋で激突。伊達軍8千に対して芦名・佐竹等連合軍は3万という大軍だったので次第に追い詰められるが連合軍は事情があって撤退し助かる。
 1588年には芦名・佐竹連合軍4千を郡山の戦いで僅か600の兵で撃退した。1589年には芦名領に攻め込み摺上原の戦いで芦名軍を撃破する。

伊達政宗の像
宮城県仙台市青葉区川内1の青葉城(仙台城)に建つ伊達政宗の像

【日本の覇者と・・・】1590年、豊臣秀吉が小田原征伐に来ると、迷った政宗だったが秀吉に降伏する。その際、旧芦名領は取り上げられてしまった。
 領地を没収された大崎・葛西の旧臣達が、新領主・木村吉清の政治に不満を持つ農民達と一緒になって大規模な一揆を起こしたので蒲生氏郷と共に征伐に向かおうとした。しかしここで一揆を煽動しているのは政宗だということがばれて上洛し秀吉に弁明している。そのおかげで改易は免れたが、領土の一部が没収され、今揉めている大崎と葛西の旧領地を新たに与えられることになった。
 朝鮮出兵では、1593年に朝鮮半島に上陸しているが半年ほどで帰っている。1595年、豊臣秀次が謀叛を企んでいるという理由で切腹させられ、秀次と親しかった政宗にも謀叛に荷担しようとしていたという疑惑がかかるが、ここでもうまく弁明して事なきを得た。

【百万石のお墨付き】1598年に秀吉が死ぬと徳川家康に接近、娘・五六八姫と家康の六男・辰千代(松平忠輝)を婚約させる。
 関ヶ原の戦いでは、徳川家につき最上領から撤退する上杉景勝軍を追撃するなど貢献したが、同じ東軍の南部領で一揆を煽動していたことがばれてしまい、たったの2万石しか加増されなかった。
 1613年4月、鉱山奉行の大久保長安が死亡すると彼の謀反の計画が噂され、その時に政宗の名前も出るが特にお咎めはなかった。
 1614年9月、家臣の支倉常長をスペインに派遣したが、彼は何の実りもないまま1620年に戻ってきている。

瑞鳳殿
宮城県仙台市青葉区霊屋下にある伊達政宗の霊廟・瑞鳳殿

【大坂の陣】1614年、豊臣家から味方になるように誘いがあったが、使者を捕らえ江戸に送って徳川家に二心がないことを証明している。冬の陣では真田丸の攻防で奮戦する。翌年の夏の陣では道明寺の戦い後藤基次と戦い彼を討ち取った。その後、基次の援護に来た真田幸村と戦うが勝敗はつかなかった。
 大坂の陣後の政宗は茶・料理・和歌などで日々を無駄なく過ごし、1636年5月24日、江戸で死亡。辞世の句は『曇りなき心の月を先だてて浮世の闇を照してぞ行く』。

管理人・・・この人が人気があるのは想像させる部分が多いからでしょうね。「もしあの時、、、」って人に空想させる余地が多いですし、何かしてくれそうな感じがしますからね。
 混乱に乗じるのが得意な方です。しかし後でばれてよく罰せられています。野望が多過ぎて身を滅ぼしそうなことが何度もありましたし。
 若い頃は虐殺行為が目立ちます。ヒステリー行為によるものだという説があります。政宗のライバルの一人である最上義光が悪逆非道みたいに言われていますが、私は政宗の方がひどく見えます。
 以上、戦国時代を持ち前の器量で渡りきった人気者・伊達政宗の紹介でした。

参考文献:伊達政宗―独眼竜の野望と咆哮・戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣名将列伝大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略、ほか

UPDATE 2002年2月13日
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