松平忠輝

(まつだいらただてる)

生没年:1592〜1683年/ 身分:越後高田城60万石/ 官位(通称、号):上総介

高田城
新潟県上越市本城町にある忠輝の居城・高田城

【鬼っ子・辰千代】1592年に徳川家康の六男として生まれる。母は茶阿の方(お久)といい、元々は遠江・金谷の鋳物師の妻であった。しかしその土地の代官が茶阿をものにしようと夫を無実の罪で謀殺したので、家康に訴えて仇を取り、そのまま側室となった人物である。
 忠輝は下野長沼4万石の大名である皆川広照が引き取り、育てることになった。1600年の8歳の時に断絶しかけていた長沢松平家の名籍を継ぎ、さらにその2年後には下総佐倉5万石、さらに翌年には信濃川中島14万石と左近衛権少将の官位が授けられる。1605年5月には将軍となった徳川秀忠の名代として大坂城に行っている。

【大大名】『身の丈低く、眼大にして、眉つり、色極めて黒く、性驍果暴慢』という、異相の男に成長した忠輝は1606年、仙台の伊達政宗の娘・五六八姫と結婚する。1610年には越後福島60万石を与えられた。1614年2月に堀家が建てた福島城から高田城に移城した。

金剛證寺
忠輝が配流された三重県伊勢市の朝熊山にある金剛證寺

【留守】1614年10月に徳川家と豊臣家の関係が決定的になると、忠輝は江戸の留守を任される。忠輝は残されたことに不満を持ったのか、なかなか越後を動こうとしなかったが、両将軍の命令により渋々江戸に入城している。

【総司令官】しかし夏の陣では大和路の総司令官を任され出陣した。ここで忠輝は思わぬ災難にあっている。忠輝の軍を追いぬこうとした秀忠の旗本を先鋒の者が切り捨てたのだ。これにより以前から上手くいっていなかった秀忠との関係がますます険悪なものになってしまう。
 しかも肝心の戦場でも道明寺の戦いでは戦闘が終わった後にかけつけ、追撃は舅の政宗の反対で出来ず、天王寺・岡山での最終決戦でも首一つあげなかった。この時、キリスト教に理解のある忠輝がキリシタンの多い大坂城への攻撃をためらった、という噂がたつ。これにより両将軍の忠輝の印象は最悪となった。

天照寺
忠輝が配流された岐阜県高山市天性寺町83にある天照寺

【改易】さらに忠輝は家康達の不興を買うようなことをしてしまう。理由は不明だが両将軍が朝廷に大坂の陣の勝利の報告をした際、舟遊びをしてついていかなかったのだ。数々の所業に激怒したのか、家康は遺言で忠輝を改易し伊勢朝熊山への配流を言い渡した。

【配流生活】そこから忠輝は飛騨に移されたが、そこの大名・金森重頼に拒否され、最後は信濃諏訪の諏訪頼水に預けられた。その後の忠輝は住民と親しみ、一緒に湖で泳いだりして静かに余生を過ごしたという。忠輝は文化人としても一流で、この生活で諏訪地方の文化に大きな影響を与えている。1683年7月3日死亡。

松平忠輝の墓
諏訪市諏訪2−16−21の貞松院にある忠輝の墓

管理人・・・結城秀康に続く「精力がありすぎて不幸になった男」二人目という感じですね。戦国時代が収束に向かうときではなく、もう少し戦が多いときに生まれていれば活躍できたし、疎まれずにすんだと思うのですが。
 非常に長生きしてます。諏訪に移ってからは南蛮からの医術で住民達を治療していたとか。本当は優しい人て器量もあったけど、幼いころに愛を与えられなかったので屈折した(よくすねる)性格になったのかもしれません。義父はただ単に出世のために忠輝を貰い受けただけでしょうから、あまり愛情がそそがれているとは思えませんし。とにかく不幸という言葉が似合う忠輝さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典大坂の陣名将列伝戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2001年8月7日
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