金森重頼

(かなもりしげより)

生没年:1594〜1650年/ 身分:美濃国内で3千石の領主/ 官位(通称、号):長門守

庭(一枝担)
重頼が葬られた京都市北区紫野の大徳寺龍源院にある庭(一枝担)

【高山の殿様】金森可重の三男。1608年から徳川家康に小姓として仕え、大坂冬の陣でも家康に従って出陣する。陣後に美濃の関と吉田に3千石を与えられた。大坂夏の陣にも従軍する。陣後、父が亡くなると家督を継いで飛騨高山3万8千石の大名となった(前記の3千石は幕府が受け取る)。

【政治に手腕を発揮】領主となった重頼は新田開発、鉱山開発、小糸焼(飛騨国大野郡小糸で焼いた陶器のこと)を始めるなど領国経営で手腕を発揮している。特に鉱山開発では宮島平左衛門と茂住宗貞を使って金銀山十ヶ所以上を開発し実収を6万石以上にさせた。幕府に対しても将軍の上洛や日光参拝に供奉するなどを行う。1650年10月7日死亡。法名・眞龍院殿瑞雲宗大居士。京都市北区紫野の大徳寺龍源院に葬られた。

天照寺
忠輝が配流された高山市天性寺町83の天照寺

管理人・・・重頼も金森一族なので、茶・和歌にも通じていたそうです。その茶に関して以下の話があります。
 父が亡くなった際に名器・雲山肩衝を譲り受けましたが、これを徳川秀忠に献上しました。しかし天下の名器だからと重頼が秘蔵しなさいと送り返されています。それを1631年に飛騨で飢饉が起きたときに丹後宮津の京極高広に売って、そのお金を領民の救済に当てたそうです。両国経営のことといい、かなりの名君だったようですね。
 そんな重頼ですが、1618年に幕府から松平忠輝を預けられるものの、その行動に手を焼いて、1626年に願い出て諏訪頼水に引き取ってもらっています。重頼に拒否されるくらいですから忠輝は鬱屈していたのでしょう。しかし諏訪に移ったら忠輝はおとなしくなっていますので、ただ単に水が合わなかっただけかもしれません。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版寛政重修諸家譜、ほか

UPDATE 2005年10月27日
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