金森可重

(かなもりありしげ)

生没年:1558〜1615年/ 身分:飛騨高山3万8千石の大名/ 官位(通称、号):出雲守

金森長近の像
高山城にある義父・金森長近の像

 名前の読み方は『よししげ』とも。美濃の人・長尾景重の子。幼い頃から金森長近に養われ、8歳で近侍し、遂には養子となった。父と共に織田信長・豊臣秀吉に仕え、各地を転戦する。1585年に出雲守に任ぜられ、飛騨古川の増島城1万石を与えられた。関ヶ原の戦いでは西軍に属した稲葉貞通の籠もる郡上八幡城を西尾氏・遠藤氏と共に攻め降伏させる。
 1608年に長近が亡くなると飛騨高山3万8千石を継いだ。1609年に京都の方広寺大仏殿再興造営奉行に任ぜられる。1611年、常陸下妻に鷹場を与えられた。大坂夏の陣で岸和田城を守る。その際、樫井の戦いで敗北し撤退する豊臣軍を追撃し功があった。1615年6月3日、伏見で急死する。法名・徳應院殿雲峰閑公大居士。京都市北区紫野の大徳寺龍源院に葬られた。

管理人・・・茶道に通じ千利休の長男・道安の弟子となっています。その腕前は一流で、徳川秀忠の茶道の師範を務め、茶器の目利きに関しては功者と呼ばれるほどだったそうです。
 本文には『1608年に遺領を継いだ』と載せていますが、正確には関ヶ原の戦い後に長近が美濃上有知に移った際に飛騨一国を譲られているようです。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版・岐阜県郷土偉人伝・茶道人名辞典

UPDATE 2005年10月26日
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