皆川広照

(みながわひろてる)

生没年:1548〜1627年/ 身分:謹慎中/ 官位(通称、号):山城守・老圃斎

飯山城
広照が城主だった長野県飯山市飯山にある飯山城

【あっちにこっちに】下野皆川城主・皆川俊宗の次男。母は水谷治持の娘。1561年に上杉謙信について武田・北条連合軍と対陣したのが初陣となる。1578年に兄の広勝が死亡し家督を継いだ。1580年に徳川家康の麾下に属し浜松で拝謁し、安土城で織田信長とも謁見した。1590年の小田原征伐では当初北条氏に属したが、そちらが不利だと知り4月9日に家康に投降している。そして家康の家臣となり本領皆川で1万3千石を与えられた。

【改易】関ヶ原の戦いでは本国で佐竹義宣に備えた。1592年から行き場のなかった松平忠輝を預かり育てていた功で1603年に忠輝が信濃川中島14万石の大名となると、信濃飯山7万5千石を与えられる。しかし忠輝が成長するに従ってわがままになり広照が諌めても聞かなくなったので家康に訴え出たが、敗訴となって改易されてしまう。そこで入道して老圃斎と号した。

皆川広照の墓
栃木県栃木市皆川城内町1947の金剛寺にある広照の墓

【復帰】大坂の陣が起こると謹慎中の身分のまま出陣して活躍し、その功で1622年に常陸新治郡府中で1万石を与えられる。1625年に隠居し徳川家光の御伽衆となった。1627年12月22日死亡。法名・三清院殿善翁慶勝大居士。

管理人・・・松平忠輝に振り回されたことで有名です。広照が御伽衆となって登城する時、輿に乗って城に入ることを許されています。戦国の生き残りとして大事にされていたんでしょう。

UPDATE 2004年4月30日
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