佐竹義成

(さたけよしなり)

生没年:1569〜1634年/ 身分:佐竹家の家臣/ 官位(通称、号):式部大輔

【知略】父は佐竹義宗(義重の三弟)。母は小場義忠の娘。小場家は代々常陸那珂郡小場村を治めていたので小場姓を名乗っていた。1602年の佐竹家の秋田移封に対して浅利氏の残党が一揆を起こした時、鎮圧を命じられた。
 この際、浄念寺の僧・玄正を通じて説得させ降伏させた。義成は玄正を賞して食禄を与えようとしたが固持したので法橋(僧位の第三で、法印・法眼(ほうげん)に次ぐ)に推挙している。

佐竹家墓所
高野山にある佐竹家墓所

【要所を守る】その後、大館に移って津軽と南部の境界の守備をした。大坂の陣で功がある。1622年の最上家の改易では本庄と滝川城の接収をした。
 1629年3月に江戸神田橋建築の指揮をし、7月には完成させ徳川秀忠から時服と槍を賜った。1634年10月27日死亡。法名・籌山天勝。大館市の宗福寺に葬られた。

管理人・・・知略と武勇の富む武将で、一揆も力攻めではなくうまく説得して納めています。その後、大抵は首謀者を集めて騙まし討ちにしたりするものですが、義成はそういったことはしていません。

参考文献秋田人名大事典

UPDATE 2003年11月26日
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