今福の戦い

(いまふくのたたかい)

徳川軍佐竹義宣軍+上杉景勝堀尾忠晴丹羽長重榊原康勝軍(1500+6300)
豊臣軍後藤基次木村重成矢野正倫・飯田家貞隊(3600)
戦  場:摂津国今福村

【今福砦】今福は大坂城の北東にある水田地帯で、堤以外は人馬が行動しづらいという地形だった。豊臣軍は東や京街道方面からの攻撃に備えて、その堤(今福堤や蒲生堤と呼んだ)に四重の柵を設け、守備隊600を置いた。便宜上、敵にもっとも近い柵を第一柵と呼び、大坂城に近づくごとに第二・第三・第四柵と呼ぶことにする。

現在の片原(片)町
現在の片原(片)町

【佐竹軍、来襲】この今福方面に向かったのが、佐竹義宣軍である。兵1500を率いて1614年11月17日に大坂に着いていたが、25日に今福に移動した。そこに徳川家康から「明朝に鴫野方面に向かう上杉景勝と同時に攻撃を開始し、豊臣軍を撃退せよ」という命令が下る。今福に付城を築くためだった。
 11月26日早朝、佐竹軍は渋江政光・梅津憲忠が兵を率いて堤を進み、第一柵に向かって激しく鉄砲を撃ちかけた。これを京街道から見ていた豊臣軍の部将・矢野正倫は兵を率いて仮橋を渡り防戦したが、佐竹軍の勢いは止まらず、豊臣軍は仮橋を壊す間もなく撤退させられた。
 正倫は奮戦したが、撤退する途中に部下と一緒に討死してしまい、同じく守備隊を指揮していた飯田家貞も戦死してしまう。敵を排除した佐竹軍はそのまま片原町まで進み大坂城付近にまで迫った。

鴫野今福の戦い合戦図、徳川軍攻勢時
鴫野今福の戦い合戦図、徳川軍攻勢時

【豊臣軍の反撃】この様子を城内で聞いた木村重成は一人で出撃し、その途中で部下の名前を呼びながら佐竹軍のいる片原町へ向かった。それを聞きつけた部下達は急いで重成の元に駆けつけ、佐竹軍にあたった。
 豊臣軍の数が次第に増えていくのを見た佐竹軍は不利と見て第二柵に後退。木村軍はそこに付け込もうとしたが、対岸の鴫野にいる上杉軍が射撃してきたので先に進めず、堤の下に伏せてしまった。この時、豊臣秀頼は後藤基次らと共に菱櫓に登り、これを見ていたが、基次が「今福での戦いは敗れようとしています」と言うと「重成を助けろ」と彼に命令した。

旧大和川
寝屋川(旧大和川)

【名将・後藤又兵衛】基次が遊軍を率いて堤に駆け付けると、兵は3000にもなり士気が上がった。基次は木村軍の兵士達が敵の弾を恐れて伏せているのを見ると「戦いはこうするものだ」と、自ら堤の上に立って上杉軍に射撃をした。これを見た兵士達は勇気づけられ一斉に堤の上に立ち射撃をしたため、上杉軍が逆に堤の下に隠れてしまった。ここで基次は重成に「秀頼様の命令なので自分と交代しよう」と言ったが、彼は「交代すれば足並みが乱れ敵に付け込まれるだろう。それに私は初陣なのでどうしても戦いたい」と譲らなかった。
 これを了承した基次は「木村軍はこのまま上杉軍を射撃してくれ。私は堤の下から攻撃する」と言い、船で水上を進撃した。そして佐竹軍の前線が疲れた者を交代させようとして兵を堤の上に集めた時、その隙を突いて豊臣軍は突撃を開始。佐竹軍はこれに耐えきれず第一柵の向こうまで後退してしまった。この時、上杉軍からの銃弾の一発が基次の左腕を負傷させたが、命に別状はなかった。

鴫野今福の戦い合戦図、豊臣軍攻勢時
鴫野今福の戦い合戦図、豊臣軍攻勢時

【追い詰められる佐竹軍】佐竹軍は本陣の柵前で態勢を立て直し、部将・渋江政光が前線に立ち兵を励ました。この政光の指揮により豊臣軍の進撃は一時止まったが、基次が兵300を突撃させると、佐竹軍は再び後退し、政光も狙撃されて殺されてしまう。前線が崩れたことを知った佐竹義宣は大いに怒り、自ら刀を揮って指揮したが効果はなく、旗本まで崩れ始めてしまう。
 そこで義宣は遂に上杉軍へ助けを求めた。鴫野の戦いで豊臣軍を撃退させていた上杉景勝は同じ鴫野方面にいた堀尾忠晴らと共に救援に駆け付け、側面からの攻撃を開始した。そのため、豊臣軍は支えきれないと判断し撤退を決め、城へと戻った。

今福
現在の大阪市城東区今福

管理人・・・この戦いは私が好きな武将が目白押しなので、楽しく更新できました。佐竹軍も奮戦しましたが相手が悪すぎましたね。基次は味方の心理を読み取ることや突撃のタイミングを測るのが絶妙だったようで、義宣も次から次へと後退を余儀なくされています。数の差もあったんでしょうけど。
 この戦いは鴫野の戦いと連動して行われたので、そちらも読んでいただくとこの戦いの全体の流れが理解できると思います。以上、後藤基次・木村重成・矢野正倫・上杉景勝・佐竹義宣・堀尾忠晴など魅力的な武将が激戦を繰り広げた今福の戦いでした。

UPDATE 2002年2月9日
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