堀尾忠晴

(ほりおただはる)

生没年:1599〜1633年/ 身分:出雲松江24万石の大名/ 官位(通称、号):山城守

堀尾河内守親子の墓
島根県安来市の月山富田城にある堀尾河内守親子の墓

【仏の孫】遠江浜松城主・堀尾忠氏の子で豊臣家の中老だった堀尾吉晴の孫。母は前田玄以の娘。幼名・三之助。関ヶ原の戦いで堀尾家が東軍に味方し功があったため出雲に栄転となった。1604年に父が急逝したため僅か6歳で家督を継ぐ(実際は祖父の吉晴が国政を見ていた)。

【出雲騒動】この家督相続に関してお家騒動が起きている。堀尾家の筆頭家老・堀尾河内守が自分の息子(堀尾吉晴の娘との子)を後継ぎにしようと、忠晴を監禁した上、亡き者にしようと命を狙い刺客を放ったのだ。しかしこの企みは露見し忠晴は吉晴によって助け出され、河内守親子は隠岐へ流された後、自害させられている。1611年には江戸に参府し徳川秀忠の偏諱を賜り忠晴と名乗り、それと共に従四位下山城守に任ぜられた。この年に松江城も完成させている。

松江城
忠晴が城主だった島根県松江市にある松江城

【冬の陣で活躍】1614年の大坂冬の陣には若干16歳で参陣した。今福の戦いでは友軍の佐竹義宣が苦戦しているのを見てこれを助けている。
 しかしこの戦いが終わった後、義宣の使者が忠晴の元へ来て「今回の戦いは敵を誘き出すためにわざと負けた振りをしていたのです。その事情も知らずに追い散らされたのはその意を得ない。今後はそのようなことはしないでください」とお礼ではなく苦情を言って来たのだ。翌日、秀忠に称賛されたが後で軍奉行が来て「忠晴殿のお手柄ではあったが佐竹殿の謀を邪魔をしたので軍法違反です。今後はやってはならないことです」と義宣と同じことを言ってきた。
 これを聞いた忠晴は微笑みながら「古来から目の前の敵を『これは誰々の敵だ』と言って見逃したりした者がいただろうか。これからも私は敵が迫ってくれば応戦する覚悟です。ご容赦ありたい」と答えている。これには軍奉行も何も言えなかったという。翌年の夏の陣にも従軍するが大した活躍はなかった。

【無嗣廃絶】1619年の福島正則の改易の時には森忠政らと共に広島城受け取りの検使役を勤めている。1632年には伊勢亀山城の解体作業を受け持った。1633年に死去。死ぬ直前に従兄弟の宗十郎を後継ぎにしようとしたが幕府に認められず堀尾家は断絶してしまう。忠晴は松江の基礎を築き神仏を大事にした名将であったと伝えられている。

堀尾忠晴の墓
松江市の円成寺にある堀尾忠晴の墓

管理人・・・堀尾家は運をすべて山内家に吸い取られたと言われています。理由は関ヶ原の戦いの際、堀尾忠氏が自分の城を徳川家に献上し徳川軍の進撃をスムーズにさせ恩を売るというアイディアを山内一豊に話したところ、彼はそれを盗み自分のアイディアのように家康に進言してしまったため、それから運がどんどん下降して行きました。その後、加増はあったけど寒く陸の孤島の山陰に移動させられ、忠氏はマムシに噛まれて死亡。ろくなことがなかったそうです。

 1632年に亀山城を解体したって書いていますが実際は修築が目的で行ったらしいです。でも、修築のため解体した際に本当は丹波亀山城と分かってそのままにしちゃって行ってしまったそうな、、、。そんなことなくて本当は幕府の命で壊しただけだと思うのですが、どうなのでしょうか?
 1625年にアルコール依存症のため、禁酒を宣言してます。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2001年12月24日
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