森忠政

(もりただまさ)

生没年:1570〜1634年/ 身分:美作津山19万石の大名/ 官位(通称、号):美作守

森蘭丸ら兄3人の墓
岐阜県可児市兼山596の可成寺にある蘭丸ら兄3人の墓

【小姓】美濃金山城主・森可成の六男として生まれる。幼名・仙千代。兄には「鬼武蔵」の異名で知られる森長可や、織田信長の小姓として有名な森蘭丸などがいる。
 1582年の春、13歳となった忠政は信長の小姓として出仕する。しかし先輩小姓にからかわれたのに腹を立て、その男の頭を叩いたのを信長に見られ「忠政は幼いのでまだ小姓は無理だ」との理由で金山城に返された。1582年6月2日、本能寺の変がおこり、主君・信長や蘭丸ら3人の兄が明智光秀に討たれてしまうが、忠政は金山城に戻されていたおかげで難を逃れている。

【突き落とされる】信長死後の織田家では、信長の次男・織田信雄(後ろ盾は羽柴秀吉)と三男・信孝(後ろ盾は柴田勝家)の二人の対立が激しくなった。その時の森家の当主・長可は義父である池田恒興に同調し秀吉につこうと決めた。
 だが長可には気になることが一つあった。弟の忠政が人質として信孝の居城・岐阜城に預けられていたのだ。このまま秀吉につけば間違い無く忠政は殺されるだろうと考えた長可は忠政の救出に向かう。わずかな手勢で岐阜城に忍び込み忠政を外に出すと、布団が敷いてある30メートル下の谷底に突き落とし脱出に成功する。

【森家を継ぐ】1584年、小牧・長久手の戦いが起こると、長可は秀吉有利と見て羽柴軍につくが、徳川軍を奇襲しようとして失敗し逆に討ち取られてしまう。そのため忠政が金山城主となる。
 その後、佐々成政討伐戦・九州征伐・小田原征伐などに参加し功を上げた。朝鮮出兵では肥前の名護屋城の築城奉行を命ぜられ渡海は免れている。

森忠政の像
津山城に建つ忠政の像

【時流を見る目】1598年に秀吉が死ぬと家康に接近。豊臣家の官僚派が家康を討とうとしているという噂が立つと細川忠興と共に家康の屋敷に駆け付けている。この時、家康に「両家の真心は徳川家が続く限り忘れない」と感謝されている。
 1600年春、家康は忠政を自陣営に取り込もうと、信濃川中島14万石に移封させ恩を売っている(川中島は本能寺の変まで長可の領土だった)。忠政は海津城に入城し、そこを待城(松代)と名前を変えた。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍し真田昌幸の篭る信濃上田城を攻撃し敵兵数百人を討ち取る活躍をしている。

森忠政の墓
和歌山県の高野山にある忠政の墓

【美作の太守】1603年2月6日、忠政は美作19万石に移封された。忠政は山名氏の支城であった鶴山城跡を津山と名を改め、1604年から12年間の歳月をかけて築城。それに合わせて津山の城下町を整備した。大坂の陣が始まると兵800を率いて参陣。西側の船場を担当している。夏の陣でも船場口を守り206人を討ち取っている。
 1634年7月7日、上洛する秀忠を迎える奉行に任命され京で指揮を取っていたが、商人・大文字屋宗味の家で桃を食べたところ、それに当たってしまい死亡。享年65歳。京都の大徳寺三玄院に葬られた。

管理人・・・森家の中では地味で目立たない人なんですが、忠政がいたおかげで森家は近世大名として存続しています。戦での活躍はあまり分からないですが、兄譲りの勇将だったんでしょう。築城の名人だったらしく頻繁に奉行に命じられています。
 川中島に入った時に厳しい検地を行ったため、一揆が起こっていますが、忠政はこれを鎮圧して数百人を殺したそうです。それを供養するための千人塚が長野県の善光寺内にあるそうです。

参考文献:戦国の雄 森忠政考・三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2002年2月14日
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