安藤正次

(あんどうまさつぐ)

生没年:1565〜1615年/ 身分:徳川家の家臣で五千石の領主/ 官位(通称、号):治右衛門尉

【勇敢な子供】幼い頃から豪胆で知られ、父が殺人をして追手に追撃された際に短刀を使って追手を止めた。23歳の時、駿河遠目の戦いに参加し朝日奈駿河守の家臣・矢部某の首を取る活躍をし、その後も数々の戦いで功を上げ勇将として名が知られるようになる。

安藤正次の墓
大阪市平野区平野東1-8にある安藤正次の墓

【夏の陣での奮戦】1615年5月7日の天王寺・岡山での最終決戦徳川秀忠の命により前田利常の陣に行って敵と戦うように伝達した。
 その時、豊臣軍が迫ってきたのを見た正次は前田軍の兵士達に攻撃を命じたが彼らは怯えて動かない。そのため正次が単騎で武者3人のところに突っ込み、馬から下りて一人と斬り合い首を獲ったが他の2人に斬られて重傷を追った。そこを正次の家臣・平山古右衛門に助けられて宿所の願生寺に戻っている。

【自害】徳川秀忠からは賞され、家康からは医者を差し向けられ治療に専念したが、再び立てないことを知り同月19日に自害して果てた。享年51歳。法名・浄徳院釈了栄。

管理人・・・平野の願生寺には今でも愛用の関ノ兼房の短刀が所蔵されているそうです。しかしもう立てないから自害とは、、、武士とは厳しい世界だ。また彼は安藤直次の叔父に当たるということが『日本の戦史 大坂役』に載っています。

参考文献大阪人物辞典大阪墓碑人物事典大坂の役

UPDATE 2003年11月9日
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