井伊直孝
生没年:1590年〜1659年/ 身分:近江彦根城主・井伊直継の名代/ 官位(通称、号):掃部頭

【四天王の息子】徳川四天王の一人・井伊直政の次男として駿河藤枝で生まれる。1603年に徳川秀忠に仕え、1608年に5千石、1610年には上野・安中1万石と掃部頭の官位を与えられた。
大坂の陣が起こると、病弱だった兄・直継の代わりに彦根藩兵4000を率いて出撃している。冬の陣では八丁目口を担当するが、真田幸村の罠にひっかかり、大坂城南を攻撃して豊臣軍に散々な目にあわされている(真田丸の攻防)。
これは軍令違反として処罰されかかったが、徳川家康が「味方の諸軍を勇み立たせる結果となった。よくやった」と、誉めた為、免れている。

【彦根藩を相続】1615年2月に家康の命により彦根藩18万石のうち、15万石を相続。残り3万石が直継に与えられ上野安中に転封させられた。
同年5月、夏の陣がおこると河内路を進撃し、そこにいた木村重成隊を激戦の末撃破し、重成の首を獲っている(若江の戦い)。5月8日、豊臣軍が壊滅し、豊臣秀頼らが山里曲輪に逃げこむと、そこを包囲。そこで秀忠の命を受け、一行を自害に追い込んだ。
【相談役】その功績で5万石を加増され、侍従・従四位下に任ぜられる。更に1617年にも5万石を加増されている。1633年にはまたも5万石を加増され30万石の大大名となった上、3代将軍・家光に元老の立場で迎えられ、意見があればいつでも拝謁できる権限を与えられた。
これは政治の世界から遠ざかっていった譜代大名達の意見を反映させるための処置だと言われている。それから直孝は、江戸に詰めて勤務し、家光や老中達からの相談を受けたりしている。

【愚行を止める】彼はその戦歴から軍事に関する意見が特に重視されたという。1648年9月、清に滅ぼされた明の遺臣・鄭芝龍らが再興を手助けをしてくれるよう幕府に要請してきた。これには、家光や紀州藩主・徳川頼宣、それに老中達が賛成し、当時、大量に出ていた浪人達を派遣する計画を立てはじめた。しかし直孝だけは、「豊臣家の朝鮮出兵を再現するつもりか!」と、頑強に反対した。
そのため計画が進まないまま、もたもたしていると、明残党軍の拠点・福州城が落とされてしまい、結局は中止となってしまった。その後も明残党軍の鄭成功(鄭芝龍の息子)は度々、派兵を求めてきたが幕府はそれを相手にしなかった。
【大老の家柄】それからも直孝は、幕府に必要不可欠な人物として、家光や4代将軍の家綱を補佐した。1659年6月28日、病死。世田谷の豪徳寺に葬られる。その後、井伊家は父・直政と直孝の活躍で、大老に任ぜられる家柄となった。ちなみに彼の子孫が幕末に活躍した大老・井伊直弼である。

管理人・・・彼は無口で笑顔もほとんど見せない、まるで上杉景勝のように威厳のある武将だったそうです。父の直政が厳しく育てたのでしょうね。戦国時代にだけ興味がある人には大坂の陣での活躍だけしか知られてませんが、むしろそれからの活躍の方が有名みたいです。
しかし、明の救出を断ったのは、見事だと思います。当時の日本は、秀忠・家光が大名を改易しまくっていたせいで巷に浪人が溢れ、江戸は治安が悪くなっていたたため、それらを外に向けるために幕府が乗る気だったようです。
もしそれで出兵していたら、朝鮮出兵の時のように、労多く益少なし、みたいな状態になるだろうと彼は見ていたんでしょうね。豊臣政権もあれで武断派と文治派の対立とかがおこり、寿命縮めてましたし。以上、文武両道の名将・井伊直孝さんでした。
おまけ:彼に関する逸話を訳したのですが大坂の陣とは関係がないのでここに載せておきます。「直孝は6歳で百姓の家に預けられた。そしてそこで成長し、13歳の時に近くの民家に盗人が入って山に逃げたのを聞いて、彼は暗夜にも関わらず追いかけて股の上部を切り落とした。そこに村人達が来てみんなで盗賊を撲殺した。これを聞いた父・直政は直孝を呼び寄せたが、その時に彼が雪が入る場所にひざまずいて待ち、少しも動かなかったので、直政はこれに喜んで子犬を与えたという。」(『常山紀談』)
参考文献:江戸幕閣人物100話・三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版・大坂の役・日本逸話大事典
UPDATE 2002年1月9日
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