安藤直次

(あんどうなおつぐ)

生没年:1555〜1635年/ 身分:徳川頼宣の付家老/ 官位(通称、号):帯刀

庄九郎塚
愛知県長久手町武蔵塚にある池田元助戦死の場所に建つ庄九郎塚

【三河武士】安藤基能の長男。幼少より徳川家康に仕え、姉川の戦いで初陣し、その後、長篠の戦い・小牧長久手の戦いで活躍した。
 特に小牧長久手の戦いでは池田恒興の長男・元助を討ち取り、家康から弓を授かった。1590年に徳川家が江戸に移封されると1千石を与えられる。関ヶ原の戦いでは使番として従軍。1603年の家康の将軍宣下にも供奉(天皇の行幸などの行列に供として加わること)し、1605年の正月に武蔵国内で2300石を与えられて、本多正純らと共に幕政に参加した。

【補佐役】1610年に駿府にいた徳川頼宣に付けられたが、幕政には前と変わらず関わった。またその時、遠江横須賀の大須賀(榊原)忠次が幼少であったためその補佐にもあたっている。
 大坂の陣では頼宣の軍を率いて出陣し、家康の相談役も務めた。夏の陣で息子の重能が死んだが、それを見て「犬に喰わせよ」と言い、遺体を収容しなかった。
 1617年に遠江掛川城主となり、1619年に徳川頼宣が紀伊に移封されると、付家老として一緒に紀伊田辺3万8千石に移封された。1635年5月13日死亡。享年81歳。墓所は三河妙源寺。

安藤直次の墓
愛知県岡崎市大和町沓市場65の妙源寺にある安藤直次の墓

管理人・・・直次は田辺に移封される際に問題を起こしています。大坂冬の陣の時に頼宣の領土は兵農未分離のままだったので、直次は百姓達も兵士として連れて行きました。そして冬の陣が終わってそれぞれの領地に帰したときに土地を褒美として渡すという宛行状(武家が家臣に土地または年貢などの知行を給与する時に出す文書)を発行しました。
 その後、直次が移動してから来た代官がそれのせいで兵農分離や検地が難しくなり大変苦労したそうです。まあ、これは頼宣が移封されてからきちんと整理する間もなく大坂の陣が始まったためであって直次のせいではないんですけどね。

 また彼にはこんな話しがあります。ある日、頼宣の機嫌が悪く家臣を刀の鞘で叩いた。これを聞いた直次は、頼宣の膝を力一杯に押さえて「家臣に問題があった時は私に言って下さい。そのようなことでは50万石は治められません。もし慎まなければ私は切腹します」と諭した。
 後年、頼宣は押さえつけられた膝に残った痣のことを聞かれた時「この痣は直次の形見だ。これがなかったら50万石を失っていただろう」と答えたそうです。

 あと彼の生まれた年なんですが、1544年とか1554年など様々な本に複数の年が記述してあり、どれが正しいのかさっぱり分かりませんでした。多数決で一番多い1555年にしてみました。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜江戸幕閣人物100話、ほか

UPDATE 2003年1月10日
Copyright (C) 2003 Tikugonokami.