長岡興季
(ながおきあきすえ)
生没年:1586〜1658年/ 身分:大野治房隊の部将/ 官位(通称、号):監物

滋賀県大津市坂本5丁目13-1の西教寺にある長岡監物一族の墓
【浪人】本名は米田是季。先祖・米田求政は大和の越智一族で、足利義輝に仕え御伽衆を務めた。三好一党が義輝を暗殺した時に弟・足利義昭救出に功があったが、讒言のために足利家を追い出される。その後、細川家に仕え、宮津で死亡した。
興季は父と共に関ヶ原に従軍し、細川家が豊後に移封になると、長岡の姓を許された。1607年に忠興の怒りを買い浪人となる。大坂の陣が起こると大坂に入城し、大野治房の寄騎となった。細川興秋と行動を共にしたと思われる。
【帰参】大坂落城後は近江に蟄居していたが、細川忠利の代になって帰参し、再び家老となり6500石を与えられた。その後、大坂城修築・島原の乱で活躍し、1658年1月死亡した。子孫は代々家老職を務めたという。
UPDATE 2002年9月5日
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