細川興秋

(ほそかわおきあき)

生没年:1583〜1615年/ 身分:豊臣家の部将/ 官位(通称、号):與五郎

【跡継ぎ】細川忠興の次男。母は明智光秀の娘・玉。3歳の時に玉が洗礼を受けさせている。1599年に叔父・興元の養子となった。
 1600年の関ヶ原の戦いで初陣し、岐阜城攻めや本戦で活躍した。細川家が小倉へ移封されると義父の興元は中津城主となったが、興秋は大名ではなく兄・忠興の家臣となったことを不満に思い細川家を去ってしまう。そこで興秋が中津城主となった。

東林寺
京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺内にある興秋が自害した東林寺

【人質】1604年10月、江戸に人質に行っていた弟・忠利が一時的に豊前に戻ってきた。それに代わって興秋が人質に出されることとなり、この際に徳川家の覚えめでたい忠利が正式に細川家の後継者と定められた。
 嫡子となってもおかしくなかった興秋はこれに不満を抱き、江戸に行く途中に京都建仁寺の塔頭十如寺を訪れると、そこに入り1605年1月に出家してしまう。これは忠興を怒らせたが、興秋の気持ちを考え、淀の商人である築山兵庫に世話をさせている。

【勘当】1614年に大坂の陣が起こると興秋は大坂に入城し、忠興から勘当されてしまう。夏の陣の道明寺の戦い天王寺・岡山での最終決戦で活躍したが、大坂城が落城したため逃亡し、家老松井家の菩提寺・東林寺に逃げ込む。しかし通報されて捕えられ、1615年6月6日、忠興の命令により東林寺で自害した。享年33歳。稲荷山南谷に葬られた。

管理人・・・大坂に入ったのは豊臣家から細川家への恩を返すためだという説もあるようですが、それはないでしょう。ただ単に廃嫡されたのを恨んでだと思います。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版三百藩家臣人名事典、ほか

UPDATE 2002年9月14日
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