大和郡山の戦い

(やまとこおりやまのたたかい)

豊臣軍大野治房軍(2000)
徳川軍筒井定慶軍(1000)
戦  場:大和国大和郡山城

【大和の歴史】大和は室町・戦国時代を通じて、筒井・箸尾・布施・十市などの国人衆が離合集散を繰り返して統一勢力が生まれなかった。だが最終的には筒井順慶が織田信長・豊臣秀吉の承認を得て大和を支配し統一を成し遂げた。しかし筒井氏は伊賀に移封され、代わって豊臣秀長・増田長盛が領主となるが二つの家とも改易されてしまい、小大名と徳川家が支配する国となった。その領主の入れ替わりと1608年の伊賀の筒井氏改易で大和武士達の多くが浪人となってしまう。
 これに対して徳川家康は彼等を大坂城に行かせないために、筒井氏の一族・定慶を大和郡山城の城代と1万石を与え旧臣達を繋ぎ止めようとした。これが成功し定慶の元に旧臣達が馳せ参じたが、当然そこに行かない者もおり、それらの一部は大坂の陣が始まると家康の予想通り大坂城に入り豊臣軍として戦った。

大和郡山城
大和郡山城

【豊臣軍の勧誘を蹴る】豊臣家は大和郡山が伊勢・奈良・伊賀方面から来る徳川軍の進撃路にあたり手に入れば戦略的価値があると考えた。夏の陣が始まる直前の1614年4月、大野治房の使者が大和郡山を訪れ「筒井氏が味方してくれて豊臣家が勝利した暁には、定慶に大和を、弟の紀伊守慶之には伊賀を与える」と誘って来たが、定慶は徳川家に恩があるとしてこれを拒否する。
 そのことで豊臣軍が来襲するのは確実と考えた定慶は同月16日に浪人・野武士・農民・町人をかき集めてどうにか千人ほど揃えて大和郡山城で待ち構えた。しかしいつまで経っても豊臣軍は襲ってこない。だが「もしかしたら来ないのかも」と筒井軍が考え気の緩み始めた同月26日、豊臣軍は大野治房を大将に、箸尾高春・布施太郎左衛門・細井兵助など大和武士達に先導させ、2000の兵で生駒山の暗峠を越えて大和に進入してきた。

【撤退】これを見た筒井軍は、暗闇の中ということもあって3万もの大軍と勘違いし、定慶は領地の福住に一旦撤退し他の大和の大名達の援軍を待って戦おうと考えて落ちのびた。そのため、非戦闘員の多い筒井軍は次々と城を逃げ出してしまう。残った慶之は「不甲斐ない。筒井武士の意地を見せろ!」と叱咤したが、誰もそれに従わないので結局は興福寺に落ちていった。27日の朝、撤退したことを知らない豊臣軍は奈良口・九条口から猛攻撃をかけ城を落とす。この時に逃げ遅れた農民達30人が討たれ、郡山市街も炎に包まれた。

奈良市内
現在の奈良市内

【大和武士の末路】余勢を駆って豊臣軍は奈良に向かって進撃する。これを知った奈良の惣年寄6人は町を焼かれてはいけないと、貢物を進呈して穏便にことを進めてくれるように頼んだが、豊臣軍はこれを無視してそのまま奈良を目指した。
 そのため奈良の町人達は春日山に非難したが、徳川の大軍が来るという情報が入ったため豊臣軍が撤退し難を逃れている。撤退した豊臣軍は南に転じて奈良・大和郡山の次に栄えていた今井を攻めたが地元の者が鉄砲で応戦してきたため撃退され大坂城へ引き上げた。その途中、大和二見の大名・松倉重政の追撃を受け3〜4名が討ち取られている。
 その後、豊臣軍についた大和武士達はのちの戦いで大半が討死し、『大坂落城後、大和衆は大半が潰れた。大和に落ち延びて旧領に隠れて死んだり、農民となった(『大和記』)』という。

春日大社
春日山の麓に建つ春日大社

管理人・・・豊臣軍、ならず者軍団出撃!って感じの戦いですね。最初は調子良く進撃して町人や農民相手にいきがっているけど、正規軍が大挙して来ると聞いたらさっさと逃げて、帰りの駄賃で落とそうとした今井では撃退されてしまっていますし。
 その後の道明寺の戦い若江の戦い八尾の戦いなんかとは豊臣軍の全く雰囲気が違います。以上、豊臣軍が一応勝利した大和郡山の戦いでした。

大和郡山の戦い・合戦図
(大和郡山の戦い・合戦図)

UPDATE 2002年12月5日
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