筒井定慶

(つついじょうけい)

生没年:?〜1615年/ 身分:大和郡山1万石の城主/ 官位(通称、号):主殿頭

筒井順慶の墓
高野山にある養父・順慶の墓

【順慶の養子】福須順弘の息子。母は筒井順昭の娘(順慶の兄弟)。後に順慶の養子となる。1585年、大和郡山城に豊臣秀長が入るとその家臣となった。秀長が亡くなると福住に隠遁する。
 1608年に筒井本家を継いでいた筒井定次が改易になると、徳川家康の指名で後を継ぎ大和郡山城の城代となり福住1万石を領した。

【滅亡】大坂の陣では豊臣家から誘われたがこれを断っている。1615年4月26日に大野治房が2000の兵で大和郡山に攻めてくると、兵が次々と逃げ出し手勢が僅か36人となってしまったため城を捨て領地に退却(大和郡山の戦い)。5月1日に逃亡先の福住村で絶望し、弟・紀伊守慶之に名刀『筒井丸』を残して自害している。これで大名としての筒井家は終わったが、一族の正信が旗本として筒井家を存続させた。

管理人・・・筒井家は不運な人が多いです。洞ヶ峠の件では悪く言われ、定次は言いがかりをつけられて改易、のちに自害。残った定慶も逃亡の責任とって自害・・・。
 5月1日に自害したのではなくて、10日まで福住で守りを固めていましたが、大坂城が落ちたことを知ると恥じて自害したという説と、自害と称して蟄居し病死したという説もあります。また弟・紀伊守慶之も兄を追って自害しています。

参考文献大坂の役戦国人名事典 コンパクト版・大和郡山市史・寛政重修諸家譜、ほか

UPDATE 2002年12月3日
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