織田長益

(おだながます)

生没年:1547〜1621年/ 身分:大和国内で3万石の大名/ 官位(通称、号):有楽斎如庵

大草城
長益が城主だった愛知県知多市大草にある大草城

【人ではないよ】織田信秀の十一男。織田信長の弟。織田軍の一員として各地で戦い甲州征伐などに従軍した。本能寺の変が起こった際に京都におり、甥の信忠が自害したのを聞いて「自分も自害する」と言ったものの兵に自害の準備をさせている間に安土城に逃げて助かる。
 その後、豊臣秀吉に仕えて摂津島下郡味舌に2千石を与えられた。そして出家し有楽斎と号する。千利休から茶の湯を習い『利休七哲』に数えられ、彼が亡くなった後は秀吉の茶の湯をつかさどる。

【スパイ】関ヶ原の戦いでは東軍について石田三成軍の猛将を討ち取る活躍をし大和国内に3万石を与えられた。大坂冬の陣が起こると大坂城に入り姪の淀殿を補佐したが、内実は徳川家に通じ豊臣家の情報を関東に流している。
 徳川家康が和議を希望するとそのために動き淀殿や豊臣秀頼の説得をした。夏の陣が始まる直前に大坂城を出て京都の東山で余生を過ごす。1621年12月13日死亡。

茶室・如庵
愛知県犬山市にある長益が建てた茶室・如庵

管理人・・・卑怯者で有名な有楽斎さんですが、そんなに悪いことをしているんでしょうか? 生き残るためにはそれしか道がなかっただけだと思いますが。それにいろいろ言う人が彼の立場になった時にどれだけのことが出来るか、、、。大坂城にいたら疑われて殺される危険だって多少はあったでしょうからその勇気はなかなか真似が出来ないことだと思います。本気で豊臣家を助けようと思ってやった行為だったかもしれないですし。人の心の中なんて誰にも分からないですよね。自分のことすらほとんどの人が分からないのに。

織田有楽斎夫妻の墓
京都市東山区大和大路四条下る小松町の正伝永源院にある織田有楽斎夫妻の墓

 彼は本能寺の変の際に助かったので京童から「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 むつき二日に大水出て 織田の原なる名を流す」と馬鹿にされたそうです。そんなん言われてもそうなったら一族でも普通逃げますよね。現に家康だって逃げているんだし。
 あと書くまでもないことですが、彼が住んでいた江戸の屋敷の跡が現在の東京の有楽町です。以上、大坂の陣でのスパイとして有名な織田有楽斎さんでした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版大坂の陣―錦城攻防史上最大の軍略大坂の陣名将列伝

UPDATE 2004年3月5日
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