織田信重

(おだのぶしげ)

生没年:1581〜1641年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):主水・三左衛門

大溝城
父・信澄の居城だった滋賀県高島市勝野にある大溝城

【明智光秀の孫】昌澄とも。津田信澄の長男。母は明智光秀の娘。祖父は織田信長の弟・織田信行。本能寺の変が起きた際、信澄が丹羽長秀らに疑われて殺されたため、信重は乳母に抱かれて脱出した。
 そして藤堂高虎に匿われて家臣となり、芦田庄九郎昌隆と名乗る。朝鮮出兵に従った。関ヶ原の戦いで藤堂家の領地板島で一揆が起きた時、鎮圧に活躍している。のちに京都に閉居するが、やがて豊臣秀頼に仕え、大坂の陣では豊臣軍の一員として活躍。八尾の戦い(天満口での戦いとも)で藤堂軍と戦い功があり、秀頼から国光の刀などの褒賞を与えられた。

【諸国を放浪する】大坂が落城すると脱出して京都に行き幕府に自首したが徳川家康に大坂の陣での働きは神妙だと罪を許され諸国を回る許可を得た。この時に剃髪して道半斎と号する。1618年、旗本となり近江の栗太郡と甲賀郡内で2千石を与えられる。1641年3月26日死亡。法名・源高。東京都の天龍寺に葬られた。

参考文献:藤堂高虎家臣辞典・寛政重修諸家譜

UPDATE 2002年7月23日
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