酒井重忠
(さかいしげただ)
生没年:1549〜1617年/ 身分:上野厩橋3万3千石の大名/ 官位(通称、号):河内守

群馬県前橋市の竜海院にある酒井重忠夫妻の墓
【譜代中の譜代】徳川(松平)家の譜代の家臣・酒井正親の次男。母は石川数正の姉。三河の坂井郷で生まれる。成長すると徳川家康に仕え、1569年の掛川城攻め、1570年の姉川の戦いに従軍した。1576年に父が亡くなると跡を継いで三河西尾城主となる。
1582年に本能寺の変が起こり、家康一行が伊賀越えをして伊勢まで逃げてきた時、伊勢白子で船で出迎え、それを賞された。
【家康に尽くす】1590年に徳川家が関東に移封されるとそれに従い武蔵川越1万石を与えられる(異説あり)。朝鮮出兵では江戸の留守をした。1600年の関ヶ原の戦いでは家康に従い本戦に参加し、勝利後は近江大津城の守備につく。1601年に上野厩橋3万3千石に移封された。大坂の陣では江戸の留守をし兵糧運搬を指揮する。1617年7月21日死亡。群馬県前橋市の竜海院に葬られた。
管理人・・・重忠が伊賀越えの時に船を出して助けたあと、その船に建てた船印を家康から与えられて、それから馬印として使うようになったそうです。
重忠の没年なんですが『戦国人名辞典』では1615年に亡くなったことになっています。他の本ではみんな1617年になっているのでそちらは間違いだと思います。
参考文献:三百藩藩主人名事典・戦国人名事典 コンパクト版・徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜
UPDATE 2004年6月13日
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