黒田長政

(くろだながまさ)

生没年:1568〜1623年/ 身分:筑前福岡52万石の大名/ 官位(通称、号):筑前守

黒田家発祥の地の碑
滋賀県木之本町にある黒田家発祥の地の碑

【軍師の子】黒田孝高の長男。播磨姫路に生まれる。1577年、孝高が織田信長に属したため、長政は人質に出され豊臣秀吉に預けられた。1578年に摂津伊丹の荒木村重が反乱を起こすと、孝高は有岡城説得に向かうが捕らえられてしまう。そのため織田信長に村重に属したと勘違いされて長政は処刑されそうになったが竹中重治の機転で助かった。その後、孝高が助けられると誤解が解け、秀吉に付けられて中国征伐に従軍する。

【戦功を上げる】本能寺の変後も引き続き秀吉に仕え、賤ケ岳の戦いで功があり河内国内で450石を与えられた。小牧長久手の戦いでは紀伊の根来・雑賀衆からの攻撃を岸和田城で防ぐという功があり2千石を加増される。九州征伐では孝高と共に豊後・日向方面を進撃し、日向財部城攻めで功があった。戦後の1587年に孝高が豊前中津12万石を与えられると長政もそちらに移る。この際に他国への移封を拒んだ豊前の国人・宇都宮氏の反乱の鎮圧に孝高と共に向かった。

石田三成の陣跡
関ヶ原の戦いで長政が攻めた石田三成の陣跡

【中津の領主】1589年に家督を継ぎ、豊前中津12万石の大名となり甲斐守に任ぜられる。朝鮮出兵では渡海して小早川隆景・立花宗茂らと共に碧蹄館の戦いで明の大軍を破った。この朝鮮出兵で石田三成と不和になり、秀吉没後の1599年に加藤清正・加藤嘉明福島正則らと共に彼を襲撃するが逃げられている。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、正則を説得し、小早川秀秋を味方させるように工作した。実際の戦闘でも活躍し、それらの功で筑前一国52万石を与えられる。

【福岡を造る】筑前に移った長政は前領主の小早川氏の居城・名島城を廃して、新しい城を築き、先祖の地・備前福岡にちなんで福岡城と名付けた(この時、博多の商人から反対され、那珂川より東側の武士の街は福岡、西側の商人の街は今まで通り博多と呼ばれるようになった)。そして氾濫の多い遠賀(おんが)川の改修工事(これは成功しなかった)、領内の検地、法の制定などを行っている。1603年、従四位下筑前守に任ぜられた。1606年江戸城本丸天守の石垣普請を命じられる。

黒田家墓所
高野山にある黒田家墓所

【江戸で留守】大坂の冬の陣が起こると江戸の留守を命じられ息子の忠之が福岡藩の兵を率いて出陣した(病で戦場に行けなかったとの説もある)。夏の陣では徳川秀忠に従って少兵を率いて出陣する。1615年に一国一城令のため、豊前国境沿いに築いた若松・黒崎・鷹取・大隈・小石原・左右良の六城を廃城とした。1623年に秀忠の上洛に先立って京都に入ったが、役目を果たせず報恩寺で死亡する。法名・興雲院殿古心道卜大居士。福岡市博多区千代町の崇福寺に葬られた。

管理人・・・長政が父・孝高のように夢を追わず現実路線で行ったおかげで黒田家は近世大名として存続できたんでしょう。もし長政が孝高のような性格だったらどうなっていたのか・・・。戦国時代で小領主なら如水のような人だと家を大きくできるのでいいかと思いますが、ある程度までの規模になって家をがっちりと守っていくなら長政の方がいいような気がします。以上、福岡市の基礎を築いた黒田長政さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜黒田如水、ほか

UPDATE 2005年6月5日
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