備後 田屋丸城(多屋城、山中要害ヵ。毛利山城守の居城)

●備後 田屋丸城(多屋城、山中要害?)
住所:広島県世羅郡世羅町徳市
駐車場:なし
遺構:曲輪、畦状竪堀群
標高:423メートル/比高:53メートル

 田淵谷と呼ばれる場所にあり、城主は毛利山城守と伝わる。当地を含む周辺地域は山中郷と呼ばれ戦国時代には毛利氏の領地となっており、文亀2(1502)年に毛利弘元(毛利元就の父)が山内少輔三郎に与えている。この時、毛利姓も与えていることから山内少輔三郎と毛利山城守が同一人物の可能性もある。
 年未詳だが毛利隆元が福永氏に山中要害に入るよう命じている。この山中要害が田屋丸城と同じかは不明。天正6(1578)年、毛利輝元が粟屋元種に山中要害の在番を命じた。慶長4(1599)年を最後に山中郷の名前が見えなくなり各村の名前になることから、慶長5(1600)年に毛利氏が防長に去った後、山中郷の名称がなくなり山中要害も廃城になったようだ。

(下の概略図にある曲輪5。曲輪と書いたが畑の跡で当時の状態ではなく本当に曲輪があったのか不明である。この辺りに堀切があった可能性があるようだが今は切岸があるのみ)
曲輪5

曲輪5

曲輪5

(曲輪3)
曲輪3

曲輪3

曲輪3

曲輪3

曲輪3

(曲輪1。主郭だと思う)
曲輪1

曲輪1

曲輪1

(曲輪2)
曲輪2

曲輪2

曲輪2

(北の竪堀群)
北の竪堀群

北の竪堀群

北の竪堀群

(曲輪4。ここでお腹の調子が悪くなってきて引き返した)
曲輪4

曲輪4

曲輪4

(城に続く道。下がアスファルトだそうだが荒れていて見えなくなっている)
城に続く道

(城の西に建つ堂。この道は旧道で旅人が堂で一夜を明かしたらしい)
堂

参考文献:広島県の地名、広島の中世城館を歩く、広島県中世城館遺跡総合調査報告書 第3集

感想:概略図は自分が回ったところしか載せていませんが、南西に竪堀や曲輪、堀切があったようです。そこは屋敷跡だったようで地元では姫屋敷と呼ばれているそうです。
 場所が分からず地元の方に入口まで案内していただきました。ありがとうございました!

(概略図。クリックすると別タブが開きます)
概略図


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