築山屋敷推定地(瀬名姫(築山殿)の屋敷跡)

●築山屋敷推定地
住所:愛知県岡崎市康生通南3丁目
駐車場:周囲に有料駐車場あり

 徳川家康の正室・築山殿の屋敷が現在のNTT西日本岡崎ビルや岡崎康生郵便局の辺りにあったという。郵便局の辺りに築山稲荷があり当地が築山と呼ばれるようになり、築山殿は総持尼寺のあった岡崎ビルの辺りに住んでいたと伝わる。築山稲荷、総持尼寺ともに移転し現在も岡崎市内にある。

(郵便局)
郵便局

(郵便局から東方面の通りを望む)
東側方面

(上記の先にある岡崎信用金庫資料館。推定地から若干外れる。大正6(1917)年に岡崎銀行本店として建てられた。昭和57(1982)年から資料館になっている)
岡崎信用金庫資料館

岡崎信用金庫資料館

(井伊直政像の後ろに見えるのがNTT西日本 岡崎ビル)
井伊直政像

参考文献:岡崎おでかけナビ(岡崎市観光協会公式サイト)、岡崎信用金庫の公式サイト

感想:あくまで推定地です。


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根石山祐傳寺(築山御前の首塚)

●根石山祐傳寺
住所:愛知県岡崎市両町2丁目56
駐車場:あり

 浄土真宗高田派。天正7(1579)年、松平信康と築山御前が自害を強要されると投町(なぐりちょう、現在の岡崎市朝日町と若宮町)の領主・柴田正親が殉死する。正親の次男・六郎は信康と築山御前の菩提を弔うため出家し、法名を祐(遊)傳坊了慶とし、投町に当寺を創建した。『三河聡視録』によると徳川家康が神明宮の別当を命じたという。
 慶長6(1601)年、伊奈忠次から2石の黒印状を受けた。正保3(1646)年、岡崎城主・水野忠善から現在地への移転を命じられ石高も5斗減らされる。その後、当寺の四世が幼少のため衰微し宝永年間(1704~11年)には寺領を失い、伽藍の修理ができず太子堂のみが残った。だが天保年間(1830~44年)に伊勢から来た僧・良道が再興。明治44(1911)年には本堂が再建されている。

(鐘楼門に見えたが鐘がない。大正12(1923)年に再建された)
門

(本堂)
本堂

(築山御前の首塚)
築山御前の首塚

参考文献:愛知県の地名、岡崎市史 第7巻

感想:雨の中での撮影で苦労しました。この近くに住んでいたので、その時に参拝しておけばよかったです。
 岡崎おでかけナビには「築山殿の首は信長の実検を受けた後、徳川家康の家臣・石川数正がその首を持ち帰りこの祐傳寺に葬ったとされています」とありましたが、岡崎市史などには記載がありませんでした。寺伝でしょうか・・・。


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徳川四天王の石像(岡崎市の中央緑道)

徳川四天王の石像
住所:愛知県岡崎市康生通南3丁目
駐車場:周囲に有料駐車場あり

 令和2(2020)年、名鉄東岡崎駅から籠田公園に続く桜城橋と中央緑道の完成に合わせ徳川四天王の石像が建てられた。石像になったのは岡崎市が近世から続く石工品の街であることが理由だと思われる。

(一番北(籠田公園方面)に建つ『井伊の赤鬼』井伊直政像。関ヶ原の戦いでの先陣抜け駆けの突撃をした際の勇猛果敢な馬上の勇姿を再現している)
井伊直政像

(直政の南に建つ『十万石の檄文』榊原康政像。小牧・長久手の戦いで榊原康政が徳川軍へ攻め入ろうとする羽柴秀吉を非難する檄文を掲げた時の行動を再現している)
榊原康政像

(国道1号を渡った先に建つ『伝説の太鼓』酒井忠次像。三方ヶ原の戦いで櫓の上で太鼓を打ち鳴らす奇計で、難を逃れたという謂れのある酒井の太鼓を再現している)
酒井忠次像

(最南端に建つ『家康に過ぎたるもの』本多忠勝像。武田信玄との一言坂の戦いで武田軍から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と言われた馬上の勇姿を再現している。「ちょっと待って」みたいな手と顔になっているように見える・・・)
本多忠勝像

(桜城橋)
桜城橋

感想:平日の朝に写真を撮っていたので通勤・通学の方に奇異な目で見られました。


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